パァァン!!
カジノのミラーボールが、音を立てて弾け飛ぶ。
怒号と悲鳴。
そして、止む事のない銃声。
華々しい照明器具の下では、阿鼻叫喚の惨劇が繰り広げられていた。
ポーカー台もルーレット台も、今や弾避けの障害物でしかない。
セラミック製のトランプが宙を舞い、コインは空薬莢に混じってネジ山のように足元に転がっている。
エージェント=F―――――間宮圭と、エージェント=S―――――キャサリン=シーカーは、たった二人で、怒りに猛ったギャング達を相手に、孤軍奮闘していた。
キャサリンは、バカラ台を弾除け代わりに使うと、手にしたAK74・突撃銃をフルオート連射する。
5.45mm口径、初速・秒速900メートルの牙が、容赦なくギャング達の肉を食い荒らす。
「イヤッホゥ! ストライクよ、圭!!」
キャサリンは、状況がわかってないのか、あるいは情緒に欠陥があるのか、妙に楽しそうに圭に笑いかけた。
「そいつはよかったな。 願わくば、全弾命中を狙ってくれ。 空振りは良くない。とても良くない。」
二十代半ばと思われる、気難しそうな日本人―――――間宮圭は、ニコリともせず答えた。
神経質そうに、鼻にかけたメガネをずり上げると、カートリッジを込め直したサブマシンガンを、ルーレット台越しに構える。
H&K・MP5サブマシンガン。
多くの特殊部隊が正式に採用している、世界でも最高の性能を持ったサブマシンガンの一つだ。
議論するのも愚かしい程に、連射力、貫通力、安全性、いずれにも非の打ち所が無い。
そして、だからこそ圭はそれを愛用していた。
何故なら彼は、自分が誰よりも凡人であると、自分を過小評価していたからだ。
バララララララララララ!!!!
ルーレット台が、ギャング達の銃撃で微塵に破壊される。
しかし、圭は、寸前にそこを飛び出していた。
次の障害物に向かって疾走しながら、グラインド射撃で弾を撃ち込む。
弾丸のシャワーだ。
スリーセブンでも揃ったかのように、次々と空薬莢が吐き出され、硝煙の霧が室内に立ち込める。
そうだ、ここは戦場だ。
生か死か二者択一の、極めて数学的な二進法の世界。
死にたくなければ、生きる努力をしなければいけない。
生きる努力というのは、この場合、すなわち戦う事だ。
だから、間宮圭は躊躇う事なく引き金を引いた。
バラララララララララ!!!!
悲鳴。 悲鳴。 悲鳴。
運悪く物陰に隠れそびれたギャングの肉の間を、鋼鉄の弾丸がファックする。
運良く難を逃れたギャングは、物陰に身を隠して反撃のチャンスを窺っていた。
キャサリン達の持った重火器の、予想外の火力を警戒しての事だ。
膠着。
時間稼ぎには理想的な状態だ。
しかし、この状況を長く続けるのはよくない。
時間がたてば、相手側も増援を呼べるし、何より向こう側も武器弾薬の補充ができる。
自分達の役目は、あくまで春彦と黒龍が標的を拉致するまでの、時間稼ぎをする事だ。
たった3分――――――しかし、こと銃撃戦において、3分という時間はとても長い。とてつもなく長い。
喩えれば、それは崖を登る時の感覚によく似ている。
どんなに先が長くとも、登坂者は決して気を緩めてはいけない。
決してだ。
高密度な緊張感は極度に神経を磨耗させる。
そして、研ぎ澄まされた神経は、一の瞬間を何倍にも引き延ばすのだ。
「全く、嫌な役回りだ。 リスクが高いし、ストレスも溜まる。 敵の足を止めたければ、マネキンでも置いておけばいいんだ。」
圭は、苛立たしそうに愚痴をこぼす。
「あら。 減らず口が利ける内はまだまだ余裕のある証拠よ。 これくらいでへばってたら、中東じゃ生き残れないわよ? 私が、ウズベキスタンのゲリラだらけの森の中で3日間待ち伏せを続けた時は、恐怖と神経疲労で、本当に気が狂うかと思ったわ。」
「………俺は狙撃屋出身じゃあないんだよ。」
キャサリンの武勇自慢に、圭はぶすりとして答えた。
「あれっ、怒った? 怒った?」
向こう側のテーブルの後ろから、キャサリンは場違いにも悪戯っぽい笑いを浮かべてくる。
まったく、このド天才様は頭のネジが一本外れている。
「………怒ってやしない。 マルボロの一本も吸えば収まる程度さ。 それよりも春彦達は何をしてるんだ? 時間はもうあまり無いぞ。」
「そうね。 ちょっと遅すぎかしら。 気のせいか、よくない予感がするわ。」
「止せ。 狙撃屋の勘はよく当たるんだ。」
圭が露骨に顔をしかめた。
その時、不意に圭の目の前に弾丸が撃ち込まれた。
ドンッ!!
38口径の銃声が静寂を破る。
気の短いギャングの一人が、強行手段に出ようとしたらしい。
その一発を皮切りに、次々とギャング達が拳銃を懐から引き抜いた。
まずい。
何人かが犠牲になるのを覚悟で一斉に来られたら、サブマシンガン2挺程度ではとても処理しきれない。
リスクは高いが、手榴弾を使うか―――――?
キャサリン達の頭に、そんな考えがもたげたちょうどその時、ギャング達のバリケードの奥から悲鳴があがった。
同時に、何かがメキメキと潰れる音と、何かの唸る様な音。
カジノの入り口の方から、しだいに大きくなってきたその音が、やがて壁を壊してカジノ・ホールに侵入してきた。
誰もが、それを目にして絶句した。
Gun Crazy
CASE 01 Highway StarB
隻眼のギャングは言った。
「いいや、立派なもんだぜ、小僧共。 たった二人で、我らがボスを手玉に取っちまったんだ。 誇りに思っていい。 でもなぁ……。」
春彦、黒龍、そしてレインを、順番に眺め回してから、ギャングは先を続ける。
「そいつを誇られちゃあ俺達は困るんだよ。 なぁ? 手前の顔に馬糞塗られて、生かして帰しちゃあいけねぇ。 報復はどっちかがくたばるまで殺れって、合衆国の大統領だって言ってるぜ。」
ニィ…と、男は黄色い歯を見せた。
「それは、大統領の皮をかぶった気違いよ。 合衆国の総意じゃないわ。」
意外にも、反論したのは、先ほどまで泣き言の喚いていたレインだった。
この状況に置いてもこれだけの口が叩ける胆力は大したものだと、春彦は少しだけ感心した。
並みの女性なら、ヒステリックに泣き喚くか、声も出せずに震えているかのどちらかだ。
最も、その無謀さに肝を冷やしているのも事実だが。
「へっ、妙に絡むじゃあねぇか、お嬢ちゃん。 今時、愛国者たぁ笑わせてくれるな、オイ?」
「それは、貴方がイタリア人だからよ。 私はこの国を愛してる。 私はこの国の人達を愛して、この国を誇りに思ってるからこそ、FBIを志した。 この国の人達を守りたいと、心から思ったからこそ、FBIに入った。 もっとも、貴方みたいな国の寄生虫には分からないかもしれないでしょうけど。」
ウズィ・サブマシンガンを構えたギャング達の顔つきが強張るのがわかった。
―――――まずい。
彼らは、彼女の挑発で激昂している。
刺激をあたえれば、今にも発砲せんばかりの状態だ。
春彦達は、気が気でなかった。
一体、自分達は、なんという危険物を拾ってしまったのか。
「はははっ! 聞いたかよ!? 俺達が寄生虫だとよ!」
隻眼の男が声をたてて笑った。
しかし、笑っているのは口だけだった。
「気に入ったぜ、お嬢ちゃん。 俺好みの最高にムカつく女だ。 手前だけはすぐには殺さねぇ。 マージ・ノーラで薬漬けにした後、妊娠するまで何度も何度も犯しぬいてやるよ。 麻薬中毒者の淫売になった後も同じ台詞が吐けるのかどうか楽しみだなぁ、ああン?」
「やってみなさい。 その時はアンタのアレを食い千切ってやるから。」
レインは、すばやくガヴァメントP1445を引き抜くと、隻眼の男に照門を合わせた。
今度は威嚇では済まない。
今度はギャング達も自制しなかった。
彼らの指が、一斉にウズィ・サブマシンガンのトリガーにかかる。
殺気の塊が、突風のように春彦達の肉体に叩きつけられた。
一斉掃射まで後一秒だ。
(クソったれめ!)
黒龍は心の中で舌打ちすると、相打ち覚悟で二挺のイングラムを構えた。
全く、今夜という夜はとことんツイてやしない。
どうせ死ぬなら、手前らを道連れにして、俺一人で天国への階段を登ってやる!
やってやるぜ、チクショウ!!
その時だった。
キュルルルルル―――――――キキィィ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!
耳障りな、タイヤのグリップ音。
カジノ・ホールの方からやってきたそれは、今まさに銃を発砲しようとしていたギャング達の目を釘付けにするのに、十分すぎるほどの存在感を有していた。
「!! ンな……ッッ!!?」
隻眼の男も、その片方だけの瞳を一層に見開く。
メルセデス=ベンツ560SL。
路上で見れば、特に感慨を抱く事もないだろうその車も、あろう事か、カジノの中の、このように狭い廊下を、高速道路さながらのスピードで突っ込んでくるとあれば、肝を潰さざるを得ない。
「ノ……ノォォ〜〜〜〜〜〜〜ウ!!!!!!」
隻眼の男は、コメディ・ドラマの俳優のように情けなく叫ぶと、そのまま尻を見せて逃げ出した。
無論、廊下の真ん中で兵卒のように隊列を成していたギャング達は逃げ場が無い。
彼らは、尻を見せながら、ボーリングのピンのように次々とはねられた。
中にはウズィ・サブマシンガンで応戦する者もいたが全くの無駄だった。
9mmのパラベラムの嵐は、ガラスに傷一つ付ける事も出来ずに空しく落ちた。
車のパワーウィンドウが、全面防弾ガラス張りだったのだ。
春彦達は、この正体不明の闖入者に対し最大限の警戒を持ったが、運転席のドライバーを確認するなり、その警戒は安堵に変わった。
「ヘイ、悪ガキ共。 あんまり遅いから迎えに来てやったわよ。」
「………無茶しすぎなんだよ、じゃじゃ馬。」
黒龍の皮肉に、エージェント=Cこと、アイリス=マクドゥガルが、ベンツの運転席から親指を立てて見せた。
ボンネットの中は、武器弾薬の宝庫だった。
ハンドガン、サブマシンガン、アサルトライフル、ミリタリー・ショットガン、果てはグレネード・ランチャーに至るまで、ありとあらゆる銃火器が、所狭しと積み込まれている。
先の事故で、足回りに手痛い傷を被ったアストロから詰め替えた品だった。
最悪の場合、カジノを丸ごと火の海に変える事のできるだけの火力を有している。
要塞攻めを想定した、力押しの重装備である。
「ブラーボ! コイツは最高に気が利いてやがる! ジーザス・ハレルヤ・クラック・ベイビーだぜ!!」
黒龍はそう言って、装備の中からオーストリア製の短機関銃、ステアーM69・サブマシンガン――――通称・シックスナインを取り出した。
イングラムと同じ9mm口径であるため、弾丸のストックがそのまま流用できるからである。
調子に乗ってその場で試し撃ちすら始めそうだった黒龍の尻を、硬いブーツが蹴っ飛ばした。
アイリスだった。
「悠長な事やってんじゃないわよ、上海野郎! とっとと、そいつをふんじばってボンネットの中に突っ込みなさい! セキュリティ・システムが復旧して、侵入者を認めたら、すぐに耐火シャッターがこの区画の閉鎖を始めるわ! そうなったら、どっち道捕まるのよ!?」
噛み付かんばかりの勢いでアイリスは言った。
すでにベンツは運転待ちの状態にある。
アイリスからすれば、エンジンをかける時間すら惜しい状態だったのである。
「そいつはよくない話だ。 ケツに火が着く。 もうすぐロースト・チキンの出来上がりだ。」
黒龍が再びアイリスに叱咤されるのを尻目に、春彦達は、急いで車の中に駆け込んだ。
春彦の手には、ベルナルデリー・ショットガンがすでに握られていた。
「ゴー・サインだ、アイリス。 タイム・リミットまで後20秒だ。」
「オーケイ。 望むところよ。 待ち切れなくて、獣の鎖が引き千切られそうだったわ。」
ブォォォン!!
アイリスがアクセルを踏み込むと、285馬力の怪物が獰猛な咆哮を挙げた。
メルセデス=ベンツ560SL。
安全性と高級感が売りのメルセデス=Sクラスシリーズだが、この560SLだけは別格だ。
V8気筒、5.6リッターの大排気量に加え、最高時速は160マイル/時をマークする、ポルシェやフェラーリとも肩を張れる高速の魔物だ。
しかも、ギャングのお偉いさんが使っていたものらしく、全面、防弾仕様である。
逃走手段として、これ以上ない程におあつらえ向きの足だが、しかし、それに関して、劉黒龍にはただ一つハッキリ言える事があった。
あの、アイリス=マクドゥガルという女。
アイツがこの車を選んだのは、安全性だとか、加速力だとか、そういったものを期待しての事ではない。
ただ自分が乗ってみたいからこの車を選んだのだという事を。
ブルルルルルルル!!!
廊下に突っ込んだベンツが、凄まじい勢いで逆走を始める。
やがて、開けたフロアに着くと、ベンツは横滑り気味に方向転換をして、カジノ・ホールにライトを向けた。
急加速。
アイリスは、屋内である事も忘れて、ローギアのまま、アクセルを踏みしろの限界まで踏み込む。
タコメーターはすでに4000回転を振り切っていた。
段差の多い室内でこんな速度を出すなど、正気の沙汰ではない。
不意に、廊下の照明が赤く点灯を始めた。
セキュリティ・システムが復旧を果たした合図だった。
カジノ・ホールとゲスト・ルームを繋ぐ区画のシャッターがゆっくりと閉じられてゆく。
その距離、目算にしておおよそ50メートル。
2秒弱もあれば走破できる距離ではあるが、残念ながらシャッターはそれまで待ってはくれないだろう。
春彦と黒龍は、車のパワーウィンドウを開けると、手にした得物をシャッターに向けた。
ベルナルデリー・ショットガンとステアーM69。
いずれも常識外の火力を持つ凶器が、耐火シャッターに向かって火を吹いた。
散弾が雨あられのごとく撃ち込まれ、シャッターはあっと言う間に蜂の巣になった。
強度の暴落したシャッターに、560SLが突っ込む。
「イィィ〜…ヤッホォォ――――――――――――――ゥウウッッッ!!!!!!」
シャッターは、異様に変形すると、そのままひしゃげて車両の進入を許してしまった。
ロバート=デ=ニーロばりのダーティな運転だ。
そのまま560SLは、カジノ・ホールに突っ込んだ。
段差で、ベンツの黒い車体が跳ね上がる。
案の定、そこには武装したギャング達が、銃器を構えて待ち構えていた。
「シィィィッット!!!!」
一人のギャングのその叫びが引き金となって、ギャング達は一斉に銃を乱射した。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
銃弾が、光の流線となって560SLのボディに叩きつけられる。
しかし、それはジェリコの壁に竹ヤリを突き刺すのにも等しい、詮無き行為であった。
やがて、無傷の560SLが、硝煙の弾幕を突き破ってカジノ・ルームを駆け抜けた。
「入り口だ! 入り口を固めろ!!」
打つ手を欠いたギャング達は、とうとう無策の暴挙に出た。
彼らが手にしているのは、ほとんどが38口径か、45口径のハンドガンである。
徹甲弾でも使わない限り、防弾ガラスを貫通するのは不可能だ。
まして、いくら人間を並べてバリケードを作ってみた所で、馬285匹分のパワーを持った猛獣を止められる訳も無い。
「退きなさいッッ! 退かないヤツはポップコーンみたいに頭が爆ぜてくたばる事になるわよ!?」
アイリスは、言葉とは裏腹に、そこでさらにアクセルを踏み込む。
尻を引っ叩かれた560SLは、一層力強くギャング達に向けて加速した。
「退けっつってんのよ、クソったれ野郎共!!」
それがアイリスの最終勧告だった。
超スピードで迫り来る560SLを目前にして、恐慌状態に陥ったギャング達は、とうとう逆上して発砲した。
それを皮切りにして、皆、堰を切ったように乱射を始める。
その愚断で、彼らは完全に逃げる機会を失った。
時速50マイル近い速度を出していた560SLは、ギャング達の身体を、容赦なく跳ねた。
凄まじい衝撃が、運転席を襲う。
幸い、来たるべき衝撃に備えて姿勢を低くしていたため、ムチ打ちになった者はいなかった。
560SLは、そうしてカジノを脱出した。
そして、残念な事に、死傷者の数は二桁に達してしまっていた。
「いやー、全く、危なかったわねぇ。 行ってみたら、両方が両方ともピンチなんだもん。 ったく、上の連中も、よーくこんなザルな作戦にオーケイ出したわねぇ?」
ロウアー=マンハッタンの町並みの間を抜けながら、アイリスは呑気に言った。
今は、先の、メルセデス=ベンツ560SLの中だ。
運転席にアイリス。 助手席に黒龍。
そして、後部座席に、春彦、レイン。
付け加えると、ボンネットの中には気絶したマーク=エベンゼールが入っている。
圭とキャサリンは、別に調達したボルボ280に乗っていた。
メルセデス・ベンツが4シーターだったからだ。
「全くだ。 まさか、あんな所に女ダーティー=ハリーがいるとは思ってもみなかったぜ。 44マグナムはガーターベルトで留めてあるのか?」
黒龍が、辛辣な口調でレインに言う。
彼女のせいで命の危険に晒されたのだから、その言い分はもっともだった。
「そうよ。 黒龍じゃないけど、貴女のやった事は無謀だったと思う。 恩着せがましい事言うようだけど、もしたまたまその場に春彦達が居合わせなかったら、貴女はマークの部屋に踏み込んだ時に殺されてたかもしれないのよ?」
アイリスも、同様に彼女を嗜めた。
彼女も、彼女なりに春彦達の身を案じていたのだ。
レインは、うつむいたまま何も話さなかった。
ただ、ひどく思いつめたような表情をしていた。
「大体、貴女、捜査令状は持ってるの? 確か、今回の件は連邦捜査局とは折り合いが付けてあったはずだけど。」
言ってから、アイリスは失言だった事に気が付いた。
その台詞が、自分達の組織―――――秘密組織《ディナ=シー》の存在を匂わせる台詞だったからだ。
「……? あの、貴女達は?」
案の定、レインはそう質問してきた。
「麻薬取締局よ。 所属は機密事項だから言えないわ。」
とっさにアイリスはそう嘘をついた。
よくよく考えれば、麻薬取締局がギャングを拉致したりするはずがない事ぐらい気が付くだろうが、残念ながら、今のレインにその客観性はなかった。
それだけ憔悴しきっていたのだろう。
あれだけの惨状を目の当たりにしたのだから、無理もない事だ。
アイリスは、少しだけ良心の呵責を感じた。
「令状は………その……ありません。 今回の事は、私の単独捜査です。 令状の申請はしたんですが……あの…証拠不十分だって………。」
レインは、途切れ途切れにそれだけ告げた。
誰も驚く者は居なかった。
皆がその答えを予想していたからだ。
連邦捜査局クラスの国家組織が、今回のような大きなヤマに、女性捜査官一人だけを派遣し、あまつさえ敵の本拠地に一人でやるなど、常識では考えられない事だ。
となると、彼女の単独捜査と考えるより他無い。
「あのねぇ……。 正義感は認めるけど、貴女もいい大人なら、可能かそうで無いかの分別くらいはつけた方がいいわ。 無為に突っ込んでった所で、余計な死体が一つ増えるだけよ?」
「………分別って何ですか?」
レインの口調が変わった。
先の弱々しい口調ではなく、戦士たるアイリスですら気圧されそうになるほどの、凛とした声である。
「出来る事と出来ない事の分別って何ですか? それって、相手が強いとわかったら、戦う事すらしないって事ですか? 例えば、今この瞬間にも、マージ・ノーラのせいで人生を狂わされている人が居るかもしれないのに?」
「―――――――――」
「貴方達は、もし目の前でマージ・ノーラで苦しんでる人がいてもそう言うんですか? 相手がヴァレンティーノ・ファミリーだからあきらめろって。 自分の家族が、恋人がそうなってもそう言うんですか? 泣き寝入りしろって言うんですか? 私にはそんな事できません。」
「―――――――――」
「今、ヴァレンティーノ・ファミリーを何とかしないと、きっともっと多くの人達が苦しむ事になる。 あの悪魔の薬に、心もお金も何もかも吸い取られて、みんなおかしくなっちゃう。 それが私には耐えられない。」
アイリスは押し黙った。
彼女の瞳の中に、自分達と同じ種類の、昏い光を見たような気がしたからだ。
それは、正義感であるとか、そんな単純なものではない。
憎悪だ。
何か、大切なものを理不尽に奪われた、怒り。 哀しみ。 憎しみ。 そして絶望。
そんな負の感情に裏打ちされた、か細い希望。
それは、自分達が、最もよく知っているものだったからだ。
「アンタ――――――」
「――――――」
「亡くしたんだ……。 何かを…。」
「………………。」
レインは、若干の逡巡の後、コクリと頷いた。
「幼馴染です……。 子供の頃からハイスクールまでずっと一緒で……1年前、久しぶりに会った時には、ひどい麻薬中毒でした。 当時、まだ普及したばかりでとても値段の安かったマージ・ノーラにハマって、瞬く間にその虜になったんです。」
「――――――――」
「 マージ・ノーラは、新種のMDMAを使ったドラッグ・カクテルで、効果が長続きする反面、その後の反動は想像を絶するほどに強力です。 何度か専門の病院にも連れて行ったんですが、禁断症状がひどくて、やがてすぐに病院を抜け出すようになりました。マージ・ノーラは、吸引者の8割強がリピーターになるほど依存性が強いんです。彼も、そのひどい禁断症状に耐え切れませんでした。」
「――――――――」
「その後、彼は消息を絶ちました。 風の噂では、ヴァレンティーノ・ファミリーの下で働く事になったと聞きました。私は、ああ、やっぱりって思いました。 薬を手に入れるには、彼らに従うしかないんですから。」
「――――――――」
「次に彼と再会する事になったのは、ハドソン川ででした。 彼は、内臓と丸ごとと、左右の眼球を抜き取られて水死体で発見されました。」
そこまで言って、レインの言葉に嗚咽が混じりだす。
おそらく、彼女の脳裏には、その青年の亡骸の映像が、残酷なほど鮮明に蘇っているのだろう。
その様子から、おそらくその青年が、彼女にとって幼馴染以上の存在であっただろう事が、容易に見て取れた。
「私は悔しいんです。 そうなる前に彼を止められなかった事が。 麻薬捜査課にいたのに、堕ちていく彼に対して何もできなかった。 何一つ。 結果、私は彼を見殺しにしてしまったんです。」
レインの目に、光るものがあった。
それを見た春彦の脳裏に、かつて見た自分の生まれた国の風景をよぎる。
ああ、そうか。
彼女も自分達と同じなのだ。
もう2度と帰る事の適わない郷里。
そこにある事が当たり前だと思っていたものを、理不尽に略奪された憤り。
そうだ。 そうなのだ。
そうなった時、人はとても無謀になる。
脆弱な現実を棄てて、仮初めの希望にすがろうとする。
あの時自分がそうしたように。
「だから―――――」
春彦は不意に言った。
「だから、ヤツを殺しに行ったのか? アンタの幼馴染を薬漬けにしたヤツらを相手に。 それも、一人で敵の真っ只中に突っ込んでいったって言うのか?」
「違うわ。」
春彦の追及を、レインはいやあっさりと否定した。
「見損なわないで。 勝算ならちゃんとあった。 そして、それは今、私の手の内にある。 あの時、マークの部屋から盗ったのよ。 それがFBIの手に渡れば、お堅い上の連中も、重い腰を上げざるを得ないわ。 それが、私が彼にできる、唯一の手向けだから。」
「………!」
アイリス達の目の色が変わった。
今、レインの口にした言葉は、もし事実なら彼女達をそうさせるだけの価値を持つだけの、値千金の言葉だった。
「どういう事だ?」
当然の疑問を、春彦は口に出す。
「何を手に入れた?」
「それは言えないわ。」
「何故だ。」
「貴方達が信用できないからよ。」
レインはきっぱりと言った。
沈黙。
車内の空気が、一瞬重みを増したようだった。
「………ごめんなさい。 貴方達が私を助けてくれた事は事実だし、感謝もしている。 でも、まだ貴方達の素性がはっきりした訳じゃないもの。 身分が明かせないのなら、完全に信用する事はできないわ。」
レインは、申し訳なさそうに言った。
「…………ううん、いいのよ。 確かに、私達は、はっきりとは身分を明かした訳じゃないもの。 信用できなくて当然。 正しい判断だと思うわ。 私が貴女と同じ立場にいてもきっとそうしたでしょうね。 でも、一つだけ聞かせて。」
アイリスは言った。
「その切り札を貴女は何処に運ぶつもりだったの?」
「ど、どこって……。 ニューヨーク市警ですけど………。」
レインは、アイリスの質問の意図がわからず、しどろもどろに答える。
「そいつは止めた方がいいわ。 後ろを見てごらんなさい。」
「…………?」
レインは、言われるままに、座席の後ろを振り返った。
そこには、ギャング達を乗せた高級車が、イナゴのように群れを成してウェスト=サイド=ハイウェイを埋め尽くしていた。
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