グラマラスな肢体を持った女だった。
女だてらにキューバ葉巻を吹かし、その瞳は氷の結晶のように深く冷たい。
イタリア系の女性だった。
品性の漂うジャンニ=ヴェルサーチのコートを悠然と纏い、フェラガモのハイヒールを鳴らしながら歩く様は、芸術的ですらあった。
“血まみれの薔薇”、アシュリー=シュマイカー。
敵対勢力を、ことごとく粛清してきた彼女に対し、尊敬と畏怖の念を込めてつけられた二つ名である。
彼女こそ、ヴァレンティーノ・ファミリーのナンバー2であり、ヴァレンティーノ当人からは、相談役の地位を拝命している。
ファミリーが戦いの場に駆り出される時、必ずその背後には彼女がいた。
狡猾にして、残忍な、戦場の指揮者。
牙を剥いた獲物は、嘲弄し、陵辱し、殲滅し、生贄の子羊とする。
それが、このアシュリーという女だった。
軍隊あがりの傷だらけの強面の男達を従え、魔女は優しく悪魔の微笑を浮かべる。
アシュリーの今立っている場所は、ついほんの15分前まで銃弾の飛び交っていたカジノであった。
いつもならば、喧騒も最高潮に達しているだろうこの時間に、しかし今夜においては竜巻でも通った跡のように無残に朽ち果てていた。
歓声と嬌声とトランプの代わりに、空薬莢と血と死体が所々に転がっている。
「ロッシ。」
アシュリーは、今夜のカジノの警備隊長をしていた隻眼の男の名を呼ぶ。
隻眼の男―――――マリオ=ロッシは、片方の足を引きずりながら、おずおずと彼女の前に立った。
その顔は、そのがっしりとした巨体からは想像も出来ないほどに青ざめていた。
「せっかくいい夜を過ごしていたところを呼び出されてみれば………何なの、この惨状は? 納得のゆく説明をしなさい。 答えの如何によっては、貴方は今夜、エンパイア=ステートビルの屋上から、さかりの付いたレミングのように飛び込む事になるわよ。」
アシュリーの恫喝に、ロッシの顔からさらに血の気が引く。
それは、死刑宣告にも等しい台詞だった。
あの東洋人達を相手に自分の犯した失態が彼女の耳に入れば、納得しようがしまいが、自分の頭がトマトピューレにされる事は明白だ。
いいや、やる。
この女は絶対にそれをやる。
アシュリー=シュマイカーの辞書に、『躊躇』の2文字が落丁している事を、ロッシは嫌という程よく知っていた。
しかし、言わぬ訳にはゆかない。
後は、彼女の気紛れがある事を祈るしかないのだ。
無神論者であったはずのマリオ=ロッシは、今この瞬間、心の底からサンタ=マリアに祈りたくなった。
ロッシに、今夜のカジノで起こった出来事のかいつまんだ説明を受けると、アシュリーは葉巻を一つ吹かした。
芳しい葉巻の煙が、大仰な輪を作る。
鉛のように重い沈黙が在った。
何事かを考えあぐねている様子だ。
今後の対応か、あるいはロッシの処分か――――――おそらくどちらもだろうが――――どちらにせよ、ロッシは気が気でなかった。
死刑宣告を受ける前の罪人の気持ちがよくワカる。
長い沈黙の後、アシュリーはようやく口を開いた。
「ロッシ。 セキュリティ・システムの管制室に案内しなさい。」
「は……管制室ですか?」
ロッシがオウム返しにつぶやくのを聞くやいなや、予告無くアシュリーの拳がロッシの鼻頭に打ち込まれた。
思いがけないその一撃に、ロッシはもんどりうって倒れこむ。
女性とは思えぬ拳の重さだった。
「いいかい、坊や。 私は案内しろとは云ったが、追唱しろとは一言も云ってやしないよ。 黙ってとっと案内しな、役立たず。」
「スィ……はい。 申し訳ありません、ミズ=シュマイカー……。」
鼻腔から血を滴らせながら、ロッシは頷いた。
セキュリティ・システムの管制室。
つい30分やそこら前に復旧を果たしたモニターは、今や廃墟同然と化したVIPルームまでの通路を写していた。
イングラムのフルオート掃射を何度も受けた廊下は、ソファーがめくれ上がり、その下のリノリウムの床まで容赦なく抉り取られていた。
アシュリーは、無言で今夜の分のモニタービデオを機材の中から取り出すと、事件のあった時刻前のテープを選び、巻き戻す。
ノイズの混じったモニターの中で、タイマーだけが目まぐるしく動いていた。
「し、失礼ですが、ミズ=シュマイカー…。 セキュリティ・システムは、事件の起こる直前に、何者かによってブレーカーをダウンさせられていますので、一時的に使用できない状態にありました。 ですから、おそらく何も写ってはいないかと……。」
褐色色の肌の管制員が遠慮がちにそう進言する。
その声は、滑稽なまでに震えていた。
「黙っていろ、可愛い小僧っ子。 チェスプレイの最中は、何人たりとも口を利いてはいけない。 増して、貴様ら手駒がチェスプレイヤーに指図するなど、あってはならぬ事なのだよ、歩兵?」
アシュリーは、冷淡に管制員を一瞥した。
ギリシャ神話のメデゥサが実在するのならば、こういう目をしているのだろうという眼光だった。
その後も、アシュリーは黙してビデオを巻き戻し続けた。
アングルごとにカメラが仕掛けてあったため、わずか十数分足らずの記録とはいえ、その量は膨大なものとなる。
一体、その作業に何の意味があるのか、ロッシ達にはわからなかった。
3分足らずとはいえ、幾重にも防衛機構の張り巡らされたセキュリティシステムをダウンさせただけの組織力を持った相手が、カメラに己の姿を晒すような愚を犯すとは思えなかったのだ。
しかし。
アシュリーが7本目のビデオを再生したその時だった。
「…………!」
カメラの右下に、ブロンド色のものが映った。
人の、髪だ。
やがて、それが拡大していき、女の顔になる。
「見ろ。 間抜けが見つかったぞ。」
アシュリーは、嗜虐的な笑みを浮かべて画面を凝視した。
そこには、レイン=フェルモンドの幼い顔立ちがはっきりと映っていた。
「そ…そうです! 確かにヤツらの一人です!」
「やはりな…。」
ロッシの反応を見て、アシュリーは得心したように頷いた。
「この女はFBIの所属だと云ったのだろう? おそらく、例の東洋人達とは別口だ。 連邦捜査局にしては、やる事が同業者じみているしな。 今夜の会合の情報が漏洩していたのだとすれば、鉢合わせになっても不思議ではない。 くく……それにしても、FBIにしては随分とやり方が幼稚と言うか……。」
アシュリーは、そう言うと、美味そうにハヴァナ産の葉巻を吹かす。
スイッチが入ったのだと、ロッシ達にはわかった。
こうなると、彼女はもう手がつけられない。
彼女は40人から成る軍役経験者を私兵として雇っており、彼女が手を振りかざした時、彼らは最も凶悪で、最も忠実な猟犬となる。
エリクソン・ファミリーとの抗争の際、突撃銃を手にした彼らが、ゴミのように敵を虐殺するのを、ヴァレンティーノ・ファミリーの者ならば誰もが目撃している。
彼らと、そして彼女こそが、ヴァレンティーノ・ファミリーの、恐怖の代名詞だった。
死の女王は、邪悪な笑みを満面に浮かべて云った。
「ロッシ。 1時間だけ時間をあげるわ。 1時間でこの女に関する情報の全てを調べなさい。 経歴、所属、家族構成、身体的特徴、……一切合財を!」
法外な注文であった。
いかにヴァレンティーノ・ファミリーが大所帯であろうと、1時間足らずでそんなCIA紛いの事ができるはずがない。
「ミ…ミズ=シュマイカー! あまりに時間が足り無さ過ぎます…! せめて……せめて2時間の猶予を!」
殴られるのは覚悟の上でロッシは泣きついた。
しかし、それが自分の遺言になるという事は、ロッシも考えてはいなかった。
次の瞬間、アシュリーの取り出したS&W・M29―――――女が持つにはあまりにもごつ過ぎるその大口径回転式拳銃の放った44マグナム弾が、マリオ=ロッシの脳髄を破壊していた。
190を超える巨体が、ゆっくりと仰向けに倒れる。
既にその顔面は、親でも見分けられぬ程に原型を留めてはいなかった。
「オーケイ。 私は今、とても機嫌がいい。 2時間と言わず、永久に休暇をあげよう、ロッシ。 シチリア海でもエーゲ海でも、好きなところに行くといいわ。」
おそらく、それらの観光スポットよりも、はるかに遠い所に旅立ったであろうそのイタリア人は、もはや閉じる事のない口を、虚空に向けて開いていた。
その向こうで、まだ若いニグロ系の管制員が、ガタガタと震えながら失禁していた。
「さて、当面の問題は、逃げたネズミ達の生け捕りか。」
アシュリーは、人差し指を唇に当てると、パチンと一つ指を鳴らした。
傍らに控えていたスカーフェイスの男が、上官に点呼でもされたかのように背筋を正す。
「モリッツィオ。 あいつらを使おう。 あの、とびきりの狂犬達を。」
その言葉の意味する所を理解し、スカーフェイスの軍人崩れ……モリッツィオは驚愕した。
「あいつらを……ですか…。」
「無論だ。 こういう時のために奴らを飼っているんだ。 無垢な童顔の悪魔達。 ニコラシカ、オリガ、そして運び屋のラザロ。 ブロードウェイが禁猟区などと誰が決めた? 奴らを大いに楽しませてやろうじゃないか!」
モリツィオがなおも消極的な姿勢を示すのに、彼女はそれを無視した。
懐から携帯電話を取り上げると、おもむろに先の3名に繋げる。
しかし、その最中、荒らされたVIPルームの検証に行っていた部下達が、何やら血相を変えて飛び込んで来た。
「何事だ?」
アシュリーは不機嫌そうに彼らに尋ねた。
「た、大変です、ミズ=シュマイカー! ヤツら、とんでもないモノを盗っていきやがりました!」
「何を盗られた? シンジケートの連中の持っていたドルは、手付かずのままだったのだろう?」
「そ…それが……!!」
部下は、その、VIPルームから持ち去られた物の名を口にした。
アシュリー=シュマイカーの顔色が変わった。
Gun Crazy
CASE 01 Highway StarC
一台の3ボックス・カーが、ブルックリン=ハイツの通りの一角で鎮座していた。
ボクシーな中にも滑らかさを持つボディラインの、オーソドックスな4ドア・セダン。
真紅のルノー21ターボ。
冴えないその外見とは裏腹に、恐るべき加速とトップスピードを内に秘めたフランス車である。
その車の中で、そこを寝倉にしているのか、1人の男が、新聞紙をナイト・キャップ代わりにして運転席で熟睡していた。
赤銅色の髪の男だった。
もう何日も風呂に入っていないのか、髪が脂でベットリと湿っていた。
顎には無精髭が生え晒しになっており、着崩したカッターシャツは皺でくしゃくしゃである。
見ようによってはスラムの住人のようにすら見える、うだつの上がらない風体だ。
ガンッッ!
唐突に、運転席のパワーウィンドウが、何者かによって蹴飛ばされる音がした。
途端、男が飛び起きる。
男は、反射的に、懐の拳銃に手を伸ばそうとしたが、相手の顔を確認するなり、思い留まった。
見知った顔だったのだ。
「ラザロ。 仕事よ。 牧場の羊を数えるのは、またにしなさい。」
ガラス越しにそう告げたのは、長身の女だった。
金色のロングヘアに、エメラルドグリーンの瞳―――――歳は20歳かそこらのように見える。
彼女はロシア人だった。
「オリガか。 手前、毎回、俺を起こす度に車を蹴るのは止めろ。 お前と組む度に、仕事の報酬のいくらかは剥げた塗装代に持ってかれるんだ。 全く、面白くもねぇ話だ。 手前のそのデカい胸で俺様のナニを挟んででももらわなけりゃあ割に合わねぇぜ、クソったれ。」
男――――ラザロは、舐めるように、女の大きく開いた胸元に視線を這わせて云った。
オリガと呼ばれたロシア人女性は、男のそういった視線には慣れているのか、微塵にも恥じらいを見せず、後を続けた。
「女が欲しけりゃ39番街へ行きな。 盛りのついた雌猫達が、争って捨て値のプッシーを差し出してくるぞ、ユカタン野郎。 それよりも今は仕事が先よ。」
「ちっ! まぁいい、その話は保留だ。 今回の依頼主は誰だ? バーネット・ファミリーか? それともヴァレンティーノの方か? 判ってると思うが、CIAはお断りだぜ。」
「ヴァレンティーノ・ファミリーよ。 今夜、ミッドタウンのカジノで乱射事件があったの。 犯人は、あのマークのヤツを人質に取って逃走中。 面子を潰されたアシュリーは、頭に血を昇らせて、今にも破裂しそうになってるわ。」
「くくっ。 様ァ無ぇなぁ、あの女狐。 N・Yじゃまだ新参者のくせに、デカい顔してっからそんな目に合うんだよ。」
「標的はFBIの女捜査官が一人に、後、身元不明の東洋人が何人かいるらしいわ。 どこから調達してきたのかは知らないけど、軍隊並みの重装備をしてるって話。 今は、カジノから盗んだ560SLで、ウェスト=サイド=ハイウェイを逃走中。 もうすぐロウアー=マンハッタンを抜けるらしいわ。」
「ブルックリンを通るってのか。 そいつは運が悪い。 条件が対等以下なら、誰もこの21ターボをチギれりゃしねぇ。 バッテリー=トンネルの終点でお出迎えと洒落こもうか?」
「あまり相手を嘗めない方がいいんじゃない? 仮にも、あのマークの奴を全くの無傷で捕らえた相手よ。 それに、敵は突撃銃を何挺か持ってるって。」
オリガは他人事のように云った。
「オイオイ、冗談じゃないぜ。 たしかに21ターボのフロントは防弾仕様だが、突撃銃なんて持ち出された日にゃ、ケツの先ほどにも信用できねぇ。 銃弾の雨の中を、傘差して歩くようなもんだ。」
「問題ないわ。 こちらにも同じAK74のストックがあるし、それにニコラシカの奴がこの作戦への参加を表明してる。」
「ニコラシカ! 冗談じゃねぇ、あの気狂いとチームを組めってのか!?」
その名を耳にした途端、ラザロの声が裏返った。
心底、嫌気に満ちた声だった。
「そう言うな。 事実、彼女の腕は確かよ。」
「確か? 奴の腕が確かだって!? あのド変態野郎がか! 笑わせてくれるぜ! 綺麗な殺しがプロフェッショナルの条件だってんなら、奴はプロなんかじゃねぇ! 一人殺せと云えば、あのリジー=ボーデン様は、サーヴィスだっつって笑いながら五人は殺してきやがる! 一体、俺達がどれ程アイツの尻拭いをさせられたかワカりゃしねぇ! 知ってるか、あのクソガキは殺人ビデオ観ながらマスターベーションするんだぜ!? 俺達が胃液まみれのゲロ吐いてる横でだ! 奴には、44オートマグの銃身が黒人の男根に見えて仕方ねぇんだとさ! いいか、もう一度云うぜ!? アイツはプロじゃねぇ、ただの殺人狂だ! 俺は気違いに命を預ける気は無ぇ!」
メキシコ人は息つく間も無く叫んだ。
「じゃあ、どうする? 今から新しいパートナーを探すか? 私の専門はナイフ・コンバットだ。 銃撃戦も苦手ではないが、重装備の相手に突撃銃一挺では、問題外に分が悪い。 火力勝負に出るなら、どうしてもアイツと同等か、それ以上の戦力が必要になってくるぞ。」
「だから降りるってんだ、チクショウ!」
ラザロは投げやりに云った。
その返答を耳にしたオリガは、そう来る事を読んでいたように後を続けた。
「いいのか? 今回の事件、事によってはヴァレンティーノ・ファミリーの存在そのものを揺るがしかねない事態に発展するかも知れないぞ。」
「………何だと?」
オリガの言葉の中には、言いようの無い含みがあった。
「そいつらは、ただカジノを引っかき回して、マークの奴を攫っただけじゃ満足できなかったらしい。 事のついでに、マージ・ノーラに関する重要な物件を盗んで行ったという事だ。」
「重要なもの? 何だ、それは?」
「それはワカらない。 詳しくは教えられなかった。 おそらく、精製法に関するデータか、流通ルートの明細といった所だろう。 精製法が他の横流しされれば、いくらでもコピー商品が出回る事になる。 そうなればマージ・ノーラの価値は暴落するからな。 麻薬が命綱のヴァレンティーノ・ファミリーが被る被害は計り知れない。」
「そいつは困るな。 1年前みたいにまたギャング共が抗争を始めやがったら、仕事がやりにくくなる。 お得意様が生き残るとも限らねぇしな。」
「なら話は成立ね。」
「……仕方ねぇ。 ただ、こんなのは今回で最後だぜ。 ジャムった自動拳銃を使う事ほど危険な事はねぇんだ。 いつ暴発しやがるかワカったもんじゃねぇからな。」
「ジャムった自動拳銃って云うのは―――――」
リア・ウィンドウの後ろから声がした。
幼い少女の声だった。
「誰の事かしら、ラザロ?」
見ると、そこには14かそこらという年齢に見える少女が、馬鹿みたいに大きなコントラバスのケースを持って立っていた。
緩やかなウェーブのかかった、金色のロングヘア。
精巧なフランス人形のようにフリルのたくさんついたドレスは、いかにも世間知らずな良家の子女といった風采であった。
真夜中のブルックリンに立っている人間として、これ以上似つかわしくない人間もいないだろう。
しかし、ラザロ達は、彼女の持ったケースの中身が、コントラバスなどでは決してない事を知っていた。
そして、この少女の実年齢が、外見の倍は数えている事も。
「ニコラシカ……手前、いつからそこにいやがった…!?」
驚愕の色も露わにし、ラザロは少女に向かって云った。
「アンタがアサルトライフルにビビって泣き言ぼやいてたあたりからよ、ラザロ。 すぐに脳漿をブチまけさせてやってもよかったけど、面白そうだから放っておいたの。 車で逃げるだけが職能のガゼル君が、随分大きな口を叩いてくれるじゃない。 ええ?」
少女―――――ニコラシカは、その外見からは想像もつかない程口汚いスラングで恫喝した。
しかし、その表情は、そういう形の仮面であるかのように笑顔を崩す事はなかった。
ラザロの額に脂汗が浮かぶ。
彼の奥歯は、歯の根が合っていなかった。
「止せ、ニコラシカ。 少なくとも、このミッションが終わるまでは、我々は盟友だ。 諍いを起こしている場合じゃない。」
剣呑な雰囲気のニコラシカを、オリガが諫める。
「盟友! ははっ、盟友! 素晴らしい、じゃあつまり、その盟約を破棄する自由もあるわけね! ユリウス=カエサルを裏切ったブルートゥスみたいに!」
「ニコラシカ!」
「いきり立つな、オリガ! 私は怒っていやしない! むしろ悦んでるくらいさ! 久々にデス・ゲームを楽しめるんだからな! 何、相手は手榴弾を持ってるんだ。 不慮の事故で一人や二人死人が増えたって誰も不審に思いやしない! 必然さ! そうだろう、オリガ!?」
「ニコラシカ!!」
オリガはもう一度叫ぶと、懐から、滑る様にトカレフTT-33を取り出した。
その照準が、ニコラシカの額をポイントしていた。
少女の顔から、笑顔が消える。
代わりに、背筋の凍るような太い悪寒がその場に現れた。
「何の真似、オリガ?」
「いい加減にしろ、狂犬野郎。 手前がその口でだらだら妄言を続けるようなら、今すぐ永遠に黙らせてやってもいいんだぞ。」
「笑えないジョークね。」
「それはよかった。 本気だからな。」
オリガは云った。
「お前のお得意のガリル・アサルトライフルも、ステアーAUGも、この距離じゃ無意味だ。 どう頑張っても私のトカレフの方が速い。 私がトリガーを引くか、デコッキング・レバーを引くかはお前の態度一つだ、ニコラシカ。 次に戯言を吐きやがったら、私はお前を撃つ。 容赦なく撃つ。」
虚勢ではないと、ニコラシカは思った。
「………どうすればいいの?」
「まずはそのコントラバスのケースをこちらに渡せ。 私が中身を確認する。 それから車の助手席に乗るんだ。 それまで、私はトカレフを下げない。 妙な真似をしたら、BANG、だ。 もたもたするな!」
ニコラシカは、不承不精ながら、コントラバスのケースを、オリガによこした。
中に詰まっていたのは、ガリル・アサルトライフルが一挺に、ストーナーM63カービン銃が一挺。
後は、スターリング・サブマシンガンとウズィ・サブマシンガンが二挺ずつに、人数分の減音器と消光器が入っていた。
ギャングどころか、軍隊が実戦でそのまま使用する事ができるような重装備だ。
よくもまぁこれだけの装備を一人で調達したものだと、オリガは舌を巻いた。
「大した装備ね。 いつもながら感心するわ。 武器商人に鞍替えした方がいいんじゃない?」
「ふん、冗談じゃないわ。 私は銃を集めるのが好きなんじゃなくて、銃で人を撃つのが好きなの。」
彼女は、そう云って嫌な笑みを浮かべる。
吐き気がするとでも云わんばかりに、メキシコ人のドライバーが舌打ちを一つした。
オリガは、彼女を嗜める代わりに、もう一度トカレフを構えなおした。
ニコラシカは、大仰な仕草で両腕を上げると、そのままさっさとルノーの助手席に乗り込む。
不遜な笑みはそのままだった。
次いで、オリガも後部座席に乗り込んだ。
ベロアのシートの感触は、思っていたよりもソフトだった。
そこで、オリガは初めてガリル・アサルトライフルをニコラシカに渡した。
「………いいの? これ一挺あれば、貴方達を始末するのなんて欠伸するよりも簡単よ?」
「やれるものなら、やってみろ、売女。 その時は、この銃口がお前がこの世で見る最後の物になるぞ。」
7.62ミリの銃口が、ニコラシカの後頭部に押し当てられる。
撃鉄はすでに起きていた。
「…………! ――――――オーケイ、ワカったわ。 今だけは手を組みましょう。 無駄なリスクを背負う事はないわ。」
その無駄なリスクを引っ張りこんで来るのは何処の誰だ、とラザロは腹の内で叫んだ。
「最初からそう云えばいいのよ。」
そう云いながらも、オリガは左手からトカレフを放さなかった。
3人はあくまで仕事上の同僚関係だ。
必要以上に相手を信用する事は命取りになる。
素人ではないオリガは、その事をよく心得ていた。
「さて、行きましょう、ラザロ。 今夜は月が血に濡れるわ。」
オリガの声に艶っぽさが混じる。
その声に、メキシコ人の背筋が急激に寒くなった。
彼女に命綱を握られているのは、ニコラシカだけではないという事を、ラザロは唐突に理解した。
ガガガガガガガガッッッ!!!!!!!
ブルックリン=バッテリートンネルの暗闇に、無数の閃光が瞬く。
銃声と風切り音に打ち消された悲鳴に次いで、紅蓮の炎が上がり、道路を照らし出した。
炎の中では、無数の亀裂でフロントガラスの真っ白になったディムラー=ベンツがクラッシュしていた。
その車の後ろには、似たような黒塗りの高級車の群れが、長蛇の列を作っている。
対向車線ですら、逆走するそれらの車でいっぱいだ。
そして、彼らの目指す先には、超スピードで疾走するベンツの姿があった。
メルセデス=ベンツ560SLだ。
しかし、その車の様相は、他と比べて一種異様だった。
160マイルを超える超スピードを出しておりながら、その560SLのリア・ウィンドウは後部の左右とも全開になっており、しかも、あろうことかその窓からは人が上半身を乗り出させているのだ。
そして、その人影は、共に銃器を手にして後続の車の群れに狙いを定めていた。
シュールな絵だった。
バラララララララ!!!!
トンネル内にまた銃声があがる。
560SLから発せられた銃撃だった。
一瞬、間を置いて、後続の先頭を走っていたクワトロポルテから炎が上がる。
フロントタイヤにも被弾していたのか、クワトロポルテは急激にグリップを失うと、スピンしてトンネルの内壁に激突した。
200キロ近いスピードを出していた後続車の内、避け切る事のできなかった何台かが、その事故に巻き込まれてクラッシュする。
生憎、このトンネルにピット・インは無かった。
「春彦! 今ので何台くらいリタイヤした!?」
「わからん。 もう何台やったか忘れた。 だが、10台は確実に始末したはずだ。」
「………玉数無制限のビリヤードでもやってる気分だぜ。 アンビリーバブルだ。 俺の目が腐ってなけりゃ、後ろに15台は見える気がするんだが。」
「……そうか。 どうやら俺は目が腐っているらしい。 俺には後ろに20台は見える。」
棗春彦と劉黒龍の二人は、560SLから身を乗り出しながら叫んだ。
その手には、それぞれベルナルデリー・ショットガンにAK74・アサルトライフルといった得物が握られている。
彼らは、今、正にヴァレンティーノ・ファミリーの追っ手と壮絶なカー・チェイスを繰り広げている所だった。
無論、敵も手ぶらと云う訳ではなく、先程から頻繁に、銃弾で後部ガラスをノックしてくる。
厚めの防弾ガラスのおかげで何とか事なきを得ているが、いくら防弾ガラスとはいえ磨耗というものがある。
事実、すでに560SLの後部ガラスには無数の細かな亀裂が走っていた。
サブマシンガンのフルオート連射でも喰らえば、即座に穴が空くほど危うい状態だ。
そして、後部ガラスの割れた時とはすなわち、このレース・ゲームが終わる時でもある。
「ああ、全く」
黒龍は云った。
「なんでこの世にはこんな理不尽な事が溢れてるんだろうな。」
「俺が知るか、馬鹿野郎! 現実逃避してないで、とっとと敵の数を減らす事を考えろ!」
身も蓋も無い事を叫びながら、春彦はベルナルデリーのトリガーを引いた。
ドゥンッッ!!
12番径の散弾が、後続のディムラー=ダブルシックスを見るも無残に破壊する。
その時、飛び交う銃弾の一つが、春彦のこめかみをかすめていった。
栗色の髪の焦げる匂いが鼻をつく。
さすがの春彦も、少しだけ肝を冷やした。
「全く! 今夜って夜は幸運なのか不運なのかワカらないな!」
「アンラッキーに決まってんだろ! 一体、俺が今夜、何度ジーザスに祈ったと思ってやがるんだ! そのくせ、お告げの鐘は一度だって聴こえてきやしねぇ! 手前こそ今の状況見ろ、馬鹿!!」
「……! 見なさい!!」
運転席から、アイリスが叫んだ。
呼ばれて、春彦と黒龍が前方に目をやる。
1キロ程先に、バッテリートンネルの出口が見えた。
「もうすぐトンネルが終わるわ!! もうすぐ表の道路に出る! ブルックリンで銃撃戦なんかやったら一般車両も巻き込む事になるわ! なんとかトンネルの中だけで処理しなさい!!」
デタラメな注文だった。
ちなみに、時速160マイルで走る車が、1キロの道程を走り抜けるのに要する時間は、わずか15秒である。
「アイリス、ラリってんのか、手前は!! どうやって20台の車を15秒で撃破するんだ!?」
「アンタ達、たしか手榴弾持ってたでしょうが! そいつで何とかケリつけなさい! この閉鎖区画なら威力は倍増でしょ!?」
「いくら手榴弾ったって、一度にやれるのは2、3台が限度だ! どうしてもってんならクレイモア地雷でも持って来い!!」
「あと10秒!!」
アイリスは限界までアクセルを踏みこんだ。
トンネルの照明も、もはや橙色の流線にしか見えない。
もはや、アイリスの目には前しか映っていなかった。
「クソッ!」
黒龍と春彦は、今手元にあるありったけの手榴弾を両手に抱えた。
その数、13個。
あまり良くない数字だ。
叩きつけるような外の風圧の中で、狙いを定めることなど不可能に近い。
ただ、ピンを抜いて後ろに放り投げる。
春彦達にできる事はそれだけだ。
トンネルの出口が迫る。
もう、すぐそこだ。
「どうにでもなりやがれ、畜生!!」
春彦達は、全ての手榴弾のピンを抜くと、一斉に後ろに向かって放り投げた。
万一の時のバック・ファイアに備えて、窓を閉めて姿勢を低くする。
黒龍は、今夜何度目かの祈りを神様に捧げた。
ただ、今度黒龍が祈ったのは、ニューヨークのベレッタとカラベアの神様にだった。
560SLが、バッテリートンネルを脱出する。
――――――――――直後。
とびきり大きな爆発音が、バッテリートンネルに響き渡った。
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