フリーウェイの外灯の下に、黒いタイヤマークが長々と伸びていた。
左車線を斜めに縦断したそれは、ガードレールに激突して、火を吹くルノー21の車体に続いていた。
フロントバンパーは豆腐のようにひしゃげて、フロントの乗車員の肉体を完全に押し潰してしまっていた。
運転席に乗っていたラザロと、助手席にいたニコラシカの絶命は必至だ。
煌々と燃え盛るそのフランス車を、20メートル程距離を置いて眺める影が一つあった。
長身痩躯に、長い金髪のロシア人女性…………オリガ=ストレイヴィチだった。
ただ、彼女の右腕はだらりと下がり、その肩からは夥しい量の鮮血が流れ出している。
ルノーの後部座席に乗っていた彼女は、グレネード=ランチャーの砲弾の飛び込んできた直後、すぐさま車から離脱して難を逃れたのだった。
無論、時速80マイル以上で走る車から飛び降りてただで済むわけが無い。
彼女はアスファルトの道路に何度もしたたかに身体を打ち付けた挙句、40メートル近くも後方に飛ばされてようやく事なきを得たのだった。
その間、一度でも頭を強打していたら命は無かっただろう。
いかに彼女の技量が高かろうと、空中で体勢を立てかえる事は不可能だ。
命があったのは、単に彼女の持つ強運故だろう。
右肩の脱臼一つで済んだのなら、僥倖と云う他無い。
ニコラシカが死んだのは間違いないだろう。
何故なら、彼女は、頭に砲弾の直撃を被ったからだ。
ドアから飛び降りる瞬間、オリガはその情景をはっきりと視認していた。
鉛の砲弾が、ニコラシカの頭蓋骨を押し潰すのを。
生きている可能性があるとすればラザロだが、こちらも状況はほぼ絶望的と言っていいだろう。
何しろ、助手席で弾が爆発したとなれば、運転席もただで済むはずがないからだ。
おまけに、目の前の車両は運転席が潰れてしまっている。
希望的観測の入る余地はほとんどない。
オリガは不測の事態に歯噛みすると、懐に入れていた小型通信機を取り出した。
落下の衝撃で壊れていないかが心配だったが、予備電源の赤いランプが点いているので、まるきり壊れているというわけでもないだろう。
手動で周波数を合わせると、長いノイズの後、機械はかろうじて人の声らしきものを拾い当てた。
「Ah……こちら、“ノインテーター”。 応答せよ、“グールー”」
『こちら“グールー”。 どうした…定時連絡が随分長い事途絶えていたが』
機械の向こうから答えたのは、ボイス・チェンジャーを通したようなデジタル音声だった。
「作戦は失敗した。 エージェント=ターレス、マルティネスの両名は、その最中に死亡。 標的はいまだ逃走中。 間も無くニューヨーク市内を抜けるものと推測される。」
『……失態だな、ストレイヴィチ。 まぁいい。 それでは、可能な限り残存武装を回収し、戦線を離脱せよ。 場所はどこだ?』
「ハミルトン=エイヴを、プロスペクト=パーク脇から南東に10キロばかり行った場所よ。」
『わかった。 では、すぐにその区画を閉鎖し、証拠物件を抹消するとしよう。 15分以内に、そこに帰還用のヘリをやる。』
「了解。」
通信はそこで途絶えた。
ふたたび、夜の静寂がやってきた。
Gun Crazy
CASE01 Highway StarF
春彦達は、ガス欠を起こした560SLを乗り捨てて、現地調達したステーション=ワゴンに乗り換えていた。
逃走用の足としては少々頼りないが、贅沢を言えばキリがない。
それに、先のルノー21以来、追っ手らしいものは一切目に入らなくなった。
まだしばらくは余裕があると見ていいだろう。
フィラデルフィアのホテルに着いたのは、ニューヨーク時間で、午前1時を回る頃だった。
不測の事態と、死線とのリンボーダンスの連続で、春彦達は憔悴し切っていた。
今夜一晩で、何年寿命が縮んだものかワカらない。
おまけに、肝心のマーク=エベンゼールの身柄は、高速道路の上でカラスの餌になっている。
収穫はほぼゼロだ。
いや、武器弾薬をほとんど使い果たした事を考えると、むしろマイナスと言える。
「全く、運が悪い……。 今日って日は厄日だぜ。 いや、もう昨日か。」
劉黒龍は、首に巻いたネクタイを外しながら言った。
つい3時間前には、バリッとノリの利いていたカッターシャツは、今では汗でべっとりと肌に貼り付いていた。
同じく、服の裾を直していた棗春彦は、同じく憔悴し切っていたレイン=フェルモンドに目をやった。
「もう大丈夫だ。 このホテルは、完全にこちらの管理下にある、難攻不落のトーチカだ。 核でも使われない限り、突破の心配はない。 もっとも、相手が透明人間だと云うなら話は別だが。」
「…………。」
レインは、訝しげに春彦を見やった。
春彦は、柄にも無く冗談を云った事を後悔し、居たたまれなくなって鼻頭を掻いた。
「貴方でも」
意外にも、彼女の方から口火を切ってきた。
「ジョークを言うのね。 融通の利かない仕事人間かと思ってたのに。」
「当たり前だ。 俺を何だと思ってる。」
「首から下が機械のターミネーター? それとも、任務第一のM..I.B?」
「……俺はれっきとした人間だし、エイリアンの退治も専門外だ。 さすがにUFOが相手じゃ分が悪い。」
「P.P.Vで音楽を流せばいいのよ。 ディープ・パープルの『Highway Star』を。 エイリアンは音楽を聴くと頭が破裂しちゃうの。」
「糞ったれな話だ。 リッチー=ブラックモアのギターで世界が救われるんなら、こっちは閑古鳥だ。 世界の大半はそれを望んでるって云うのに。」
春彦は煙草を一つ取り出した。
言い様のない寂寥感が、その表情に滲み出ていた。
ふと、レインはこの青年の歳が気になった。
東洋人の顔は若く見えるため、その物腰から20代半ばあたりだろうと勝手に推測していたが、よくよく見ると大分若い。
見ようによっては、自分よりも年下のように見えた。
しかし、それよりもレインには、先の質問の方が気になっていた。
「さっき、車の中で言ったわよね。」
レインは言った。
「もし、無事に逃げ切れたら、貴方達が何者か教えてくれるって。」
春彦の目が細くなった。
その視線が、レインの青い瞳に向けられた。
「教えて頂戴、ターミネーターさん。」
「溝鼠さ。」
「………え?」
レイン=フェルモンドには、彼の言った言葉の意味がよくワカらなかった。
「ドブネズミだ。 暗く汚れた場所でしか生きていけない……すぐそこに光があるのに、決して手の届く事のないドブネズミ。 それが俺達だ。」
レイン=フェルモンド、22歳。
アメリカ合衆国、マサチューセッツ州出身。
両親は、不明。 孤児であったのを、ネイティブ・アメリカンの消防官に拾われ、養子となる。
しかし、彼女が12歳の時、養父は火災現場にて殉職。
再び天涯孤独の身となった彼女は、養父の親戚中をたらい回しにされた。
大学は、新たな義親の元、ボストン大学で法律学を専攻した。
校内でも優秀な成績を収めた彼女は、1年の飛び級の末、21歳で大学を卒業した。
同年、FBIの採用試験を受験し、合格。
本人たっての希望で、麻薬捜査課に配属される。
そして、現在に至る―――――
「………以上が、あの小娘の、おおまかな略歴です。」
モリッツィオ=タミーノは、手元の書類を読み上げた。
書類には、レインの顔写真が添えられていた。
「結構よ。」
アシュリー=シュマイカーは、ホテルの廊下を歩きながら答えた。
「インディアン。 インディアンの養子か。 道理で作法がなっていない訳だ。 蛮族はおとなしく白人のケツを舐めていればいいものを。」
アシュリーは吐き棄てる様に言った。
「《ディナ・シー》? 《ディナ・シー》だと? あの、アングロ=サクソン民族が作った、正義気取りの妖精騎士団が我々に牙を剥いたと言うのか? このヴァレンティーノ・ファミリーに。」
先の“ビーナ”との会談を思い出したアシュリーは怒りに猛っていた。
ディナ=シー。
20世紀末に端を発する極秘組織として、裏の世界では滔々と語り継がれてきた組織の名である。
その内容とは、“国境無き特殊部隊”。
世界の調和に仇為す者であれば、いつ何時、どんな地位にある者であろうと警告無く武力行使を行うという、姿無き秘密結社。
しかし、その実態はほとんど確認された例はなく、フリーメイソンの暗部と同じ類の都市伝説であると云うのが、裏社会の人間達の一般的な認識だった。
それは、その存在自体が、あまりに荒唐無稽なものだったからだ。
だが、まさかその存在を目の当たりにする当事者に、自分達がなるとは、アシュリーも思ってはいなかった。
馬鹿げている。
あまりに馬鹿げている。
“国境無き特殊部隊”だと?
世界の調律を図る秘密結社だと?
何だ、それは。
全く、ふざけているにも程がある。
一体、誰が何のためにそんな物を作ったというのか。
スーパーマンに憧れる誇大妄想狂か? 大義名分を片手に、破壊工作に精を出すテロリスト集団か?
「おそらく、この小娘もその管理下にあるかと―――――」
「そんな事はワカっている!」
アシュリーは激昂した。
「つい先ほど、ミスタ=エベンゼールとエージェント=ターレス、エージェント=マルティネスの死亡が確認されました。 エージェント=ストレイヴィチは生き残ったようですが、標的を仕留めるには至らなかったようです。」
「………当たり前だ。 いかに研鑽を積んでいようと、所詮、ヤツらは個人主義の殺し屋の寄せ集めに過ぎない。 一個の部隊として訓練を受けた、本物の戦争屋に敵うはずがない。 そうとも。 ただ、弱者を殺す技術だけを鍛え上げられたアイツらが、最初から武器弾薬を持った相手と交戦する事を前提に鍛え上げられた連中に敵うはずがないんだ。」
アシュリー=シュマイカーは、歯軋りをすると、苛立たしそうに新たな葉巻を取り出した。
「マークのヤツが死ぬのは構わない! あのシカゴの田舎者が死ぬのは一向に構わないんだ! だが、問題はマージ・ノーラの明細だ。 アレが他の組織の手に渡るのはよくない。 非常によくない。 このマンハッタンで、我々が他のマフィア組織に対して持っている、唯一にして最強のアドバンテージを、他に明け渡す事になる。 何としても取り返さなければならない! 何としてでも!」
「そう、いきり立つ事もありません、ミズ=シュマイカー。」
傍らで沈黙を守っていた、“ビーナ”が口を開いた。
相変わらず、その表情からは感情の色が読み取れなかった。
「苛立ちは何も生みません。 ただ徒に判断を曇らせ、無駄な徒労を働き、時間を浪費するだけです。」
「しかし、ミスタ=ビーナ……」
「案ずる事はありません。 その為に我々がここに居るのです。 この我々が。」
ビーナの唇が、真横に裂けたように見えた。
それが、この奇妙なロシア人の“笑み”だと理解するのに、若干の時間が必要だった。
「我々がこのニューヨークを制覇するのに、ヴァレンティーノ・ファミリーの存在は必要不可欠です。 そのためならば、我々も尽力を惜しみません。 すぐにでも追手を差し向けましょう。 世界でも最高峰の猟犬達を。」
「それは本当ですか、ミスタ=ビーナ?」
「勿論です、ミズ=シュマイカー。 世界は常に中庸に……すなわち混沌とあるべきなのです。 彼らの存在は、その我々の大義と相容れぬものです。 すなわち、『混沌』と『調律』は。 我々は決してそれを許容する事は出来ない。 例えば、イスラム教徒とキリスト教徒、そしてユダヤ教徒達が、決して理解し得る事のないように。」
天を突くような摩天楼から見下ろすマンハッタンの夜景は素晴らしいものだった。
イルミネーションの紡ぎあげる星々の海のような景色からは、そこが排ガスとコンクリートとドル札で淀んだ汚泥である事など想像する事さえできない。
それは、死海に浮かんだ潮の結晶の持つような、退廃的で脆弱な輝きなのだ。
高層タワーの最上階に位置するイタリアンレストランで、故郷の料理に舌鼓を打ちながらこの死海の絶景を楽しむ。
それが、ガーネスト=ヴァレンティーノにとって欠かすべからざるディナーの楽しみだった。
「シチリアの料理は堪能していただけただろうか?」
白い髪を総髪にまとめ上げたその壮年のイタリア人は、口元のソースを拭いながら、対面の女性にそう話しかけた。
「イタリア料理と言えばパスタとピッツァしか知らない無粋な輩も多いと聞くが、それは大きな誤りだと判っていただけただろう。 何しろ、世界に名高いフランス料理も、元はイタリアの料理人がメディチ家に持ち込んだ技法が元となって派生したものなのだ。 技巧の繊細さにおいても、それは決してフランス料理に劣るものではないと私は自負している。」
「感服致しましたわ、ミスタ・ヴァレンティーノ。」
ワインレッドのスーツをぴっちりと身に纏ったそのヒスパニック系の女性は、目の前のイタリア人に微笑みながら言った。
歳は30に差し掛かるかかからないかと云った辺りの様に見える。
眉の形はしっかりと整えられ、その瞳には理知的な輝きが感じられた。
「楽しんでいただけたようで嬉しいよ、ミズ・マリア。 そうだ、これからカフェにしよう。 イタリア料理は、その後味の余韻までをも楽しむものだ。 ちょうど、オペラのカーテンコールを楽しむようにね。」
ヴァレンティーノが給仕に軽く目配せをする。
ほどなくして、芳しい香りのポッドと、カナッペの載った皿が運ばれてきた。
クラッカーの上には、カマンベールチーズやブルーチーズ、アボカドの薄切りなど、彩りの豊な具が乗っている。
二人の前に置かれたウェッジ・ウッドのティーカップの中には、スライスされたレモンが入っていた。
給仕はその上から、コポコポと湯気の立つコーヒーを注ぐ。
それはソムリエがワインをデキャンタージュするかのように、優雅で美しい動作のように見えた。
「これは……?」
マリアは、レモンスライスの浮かんだコーヒーの様相に戸惑っている様子だった。
「カフェ・ナポリターノだ。 文字通り、ナポリ生まれのコーヒーで、ともすれば重くなりがちなコーヒーの後口をレモンの酸味が実に爽やかなものにしてくれる。 ミルクとシュガーは必要かね?」
「いいえ、このままで結構ですわ。 ブルーマウンテンの水出しコーヒーにミルクを入れるなんて、ブランデーを水割りで飲むようなもの。 焙煎者に対する冒涜です。」
「ほう! カフェというものが実によく分かっていると見える! いやはや、こちらももてなし甲斐があるというものだ。」
ヒスパニックのその才女は、コーヒーに口をつけてその味を楽しむと、おもむろに皿の上のカナッペに手を伸ばし………ふと、手を止めた。
クラッカーの色が、やけに黒ずんで見えたのだ。
ガーネスト=ヴァレンティーノは、あらかじめその反応を知っていて楽しんでいるように、にんまりと口元を緩めた。
「どうしました、ミズ・マリア? ささ、そちらのカナッペもおあがりなさい。 チーズもほどよく柔らかくなった頃合いですよ。」
「え、ええ……。」
ヴァレンティーノの勧めに断る訳にもかず、マリアはカマンベールの乗ったクラッカーを口元に運んだ。
やはり、クラッカーの黒ずみは光の具合ではないようだった。
抵抗はあったものの、食べない訳にはいかない。
「…………ッッ。」
しかし、口の中で砕けるクラッカーの味を知って、マリアは絶句した。
クラッカーの味が信じられない程濃厚で、形容しがたい複雑玄妙な甘さがあったのだ。
その小麦の甘さと香ばしさがクリームのように柔らかくなったカマンベールチーズの旨味と相まって、舌の上の官能を呼び覚ますようだった。
そして、チーズの重たい後味をカフェ・ナポリターノの酸味と苦味が雪解け水のように洗い流してくれる。
コーヒーを飲み込んでから、マリアは軽く息をついた。
「こ、これは………!」
「素晴らしいだろう、ミズ・マリア? これは、クラッカーの生地に黒ビールを混ぜて焼いたものだ。 そうすると、ビール酵母の作用によってクラッカーが実にふっくらと焼きあがるのだよ。 ビールはそれ自体が『液体のパン』と呼ばれるほど栄養豊富で複雑な旨味を持っている。 それがただのクラッカーをここまでの味に仕上げるのだよ。」
「ええ………脱帽です、ミスタ・ヴァレンティーノ。 食後のカフェでここまでの感動を味わえるとは思わぬ不意打ちでしたわ。」
「そう言っていただけるとこちらも嬉しいよ。 しかし、知っているかね、ミズ・マリア?」
「………? 何をでしょう、ミスタ?」
「本当に一番美味しいクラッカーは、マーガリンを塗ったクラッカーなのだよ。」
マリアは最初、その言葉の意味が唐突で理解できなかった。
まさか、実質ニューヨーク最大のギャング組織となったヴァレンティーノ・ファミリーの長の口から、マーガリンを塗ったクラッカーが美味しいなどという言葉が紡がれようとは思ってもみなかったのだ。
「この黒ビールのクラッカーは、私の母がよく作ってくれたものなんだ。」
ガーネスト=ヴァレンティーノは、アボガドの乗ったカナッペを一つつまむと、それを口の中に放り込んで咀嚼した。
やがて、その顔には失望の表情が浮かんだ。
「やはり違う………。」
ヴァレンティーノはそう呟いて、カフェ・ナポリターノを飲んで溜飲を下げた。
「私の母はシチリアの売春婦だった。 望んでそうなったのではない。 貧困がそれ以外の仕事を許さなかったのだ。 屑のような母親だったよ。 所構わず男を連れ込んでは、息子の前でも構わずに事に及び、酔っ払ってはよく私を殴りつけた。 典型的な駄目女だった……。」
「―――――――」
「だが、そんな女でもたった一つだけ取り得があった。 クラッカーを焼くのが上手かったのだ。 酔って暴れた次の朝には、気の抜けた黒ビールを使って私にクラッカーを焼いてくれた……。 上に塗るものはパン屑の混じった安マーガリンしかなかったが、それは実に美味かった……私はひもじい腹の中にそのクラッカーを入れながら、この世にこんな美味いものはないと思ったよ……。」
「―――――――」
「だが、その母親も私が10になるかならないかの時に死んでしまった。 あんなに好きだった黒ビールのクラッカーを、私は食べられなくなってしまったのだ。」
「―――――――」
その母親を殺害したのが、他ならぬヴァレンティーノ自身である事は、無粋であるので告げなかった。
それは、シチリアン・マフィアの暗殺者となる為、必要な儀式だったのだ。
すなわち、最愛の者を自らの手によって殺害する事は。
「その後、私は組織で成り上がり、世界中の料理人を使ってあの味を捜し求めた。 しかし、どんなにいい小麦、どんな種類のイースト菌、どんな銘柄の黒ビール、どんな種類のマーガリンを使っても、あの味は再現できなかった。 ただの田舎の安淫売が片手間に作っていた菓子を、メディチ家の宮廷料理人にも匹敵する世界の名コック達に再現できなかったのだ。 そうして探し続けて、何十年も経ったある日、私は気づいてしまったのだよ。」
「―――――何にですか、ミスタ・ヴァレンティーノ?」
「人が死ぬという事は、そういう事なのだ、と。」
「―――――――」
「人が死ぬという事は、つまり、あのクラッカーが食べられなくなってしまう事なのだと気づいてしまったのだよ。 あれは黒ビールが入っていたから美味かったんじゃあない。 マーガリンが塗ってあったから美味かったんじゃあない。 あの駄目な母親が作ったクラッカーだったからあんなにも美味かったのだ。 だから、私にはいくら捜し求めてもあのクラッカーに辿り着く事は出来ない。 二度と出来ない。 あんなにも大好きだったマーガリンのクラッカーの味を、私は永遠に失ってしまったのだ。 あの黒ビールのクラッカーの味を。」
「―――――――」
気づくと、カフェ・ナポリターノから湯気が消えてしまっていた。
ヴァレンティーノはそれに気づくと、すぐに給仕を呼びつけた。
「コーヒーがすっかり冷めてしまった。 すぐに新しいのを淹れさせよう、ミズ・マリア。」
その時だった。
ホテルの従業員とおぼしき中年男が、レストランへと飛び込んできた。
「ミスタ・ガーネスト=ヴァレンティーノ。 お電話が入っております。」
「何だって? 見て分からないのか、今はカフェの時間だ。 後にしたまえ。」
「し、しかし、向こうは至急のお電話だと……!」
「何だって? 一体誰だ、その無粋者は。」
ガーネスト=ヴァレンティーノは渋々ながら席を立つと、取り次がれた内線に耳を移した。
相手は、組織の相談役であるアシュリー=シュマイカーだった。
ヴァレンティーノは激昂しそうになった。
アシュリーは、自分があのヒスパニックの才媛・マリアに熱を上げている事を知っており、この時間が彼女との大切な時間である事を知らぬ筈がないからである。
「何だ!? この時間には内線を繋ぐなと、再三言ってあるだろう!?」
『お楽しみのところ、申し訳ありませんでした。 至急、伝えなければならない緊急事態が発生致しまして………』
「手短に言え! つまらぬ話だったら、お前の額に穴が空くぞ!」
ヴァレンティーノは激昂していた。
『も、申し訳ありません。 では、端的にお伝えします。 マージ・ノーラの明細に関するMOを、不貞の輩に奪われました。 その際に、マーク=エベンゼールが殉職。 追って追跡に打って出た暗殺請負会社のエージェント、ターレスとマルティネスも次々に殉職いたしました。 敵は現在も逃走中。 フィラデルフィア市内に進入した所を、一部の市民が目撃しています。』
「何だと!!?」
ヴァレンティーノの声が裏返った。
その内容が、あまりにも衝撃的であり、そして彼の予想の範疇を明らかに上回っていたからだった。
「マルティネスはともかく、あのニコラシカ=ターレスまでもが返り討ちに遭ったというのか! あのKGBの作り上げた怪物が!?」
『その通りです、サー=ヴァレンティーノ。』
アシュリーは苦々しげに言った。
喉から搾り出すような声だった。
「一体、貴様は何をやっていたんだ、シュマイカー!? よくもぬけぬけと報告できたものだな!! 貴様、それが一体どういう状況にあるという事なのかわかっているのか!?」
『無論です、サー=ヴァレンティーノ。 しかし、今は責任の所在を問うている場合ではありません。』
「何!!?」
『この事態に際し、“デウス”が動き始めました。 つい先ほど、“ビーナ”氏がそちらを訪ねる旨を表明致しました。』
“デウス”。
その名を耳にした途端、ヴァレンティーノの顔面が蒼白になった。
そして、ちょうどその時、彼の部屋をノックする音が一つ鳴ったのを聞き、さらにその顔から血の気が引いた。
「ミスタ=ヴァレンティーノ。 私です。 “ビーナ”です。 ここを開けていただけないでしょうか?」
“ビーナ”が部屋に入ってきたのは、約3分後だった。
部屋の中には、3人の男がいた。
イタリア系ギャング、ヴァレンティーノ・ファミリーのボス、ガーネスト=ヴァレンティーノ。
漆黒のコートを纏ったロシア人、“ビーナ”。
そして、“ビーナ”の連れて来た、得体の知れない一人の中東人の男性。
中東人男性の年齢は30代後半といった所だろうか。
顔立ちは彫りが深く、一見すると石像のようにも見えた。
“ビーナ”以上に感情の読めない男だった。
「こちらは……?」
ガーネスト=ヴァレンティーノが、機嫌を伺うように“ビーナ”に聞いた。
裏社会の王ともいうべき男が、このロシア人に対して敬語を使っていた。
「アメミット=イアン。 アラブ人です。 モサド(イスラエル情報局)出身の、優秀な殺し屋です。」
中東人……アメミット=イアンは無言で頷いた。
「アラブ人ですって?」
ヴァレンティーノは耳を疑った。
『モサド』とは、ユダヤ人の国家、イスラエルの情報機関だ。
そして、ユダヤ人とアラブ人は、ユダヤ人の信奉するユダヤ教の聖地であり、そして同時にアラブ人の信奉するイスラム教の聖地でもある、パレスティナの地の利権を巡って、何十年も血みどろの宗教戦争を続けている。
つまり、ユダヤ人の国家・イスラエルの情報機関であるモサドに、仇敵であるアラブ人がいる筈がないのである。
それを踏まえて、ヴァレンティーノは驚いたのだ。
「たしかに貴方が驚くのは尤もです。」
ビーナは、あの、唇の裂けるような奇妙な笑みを見せた。
「しかし、人間というのはこの世で最も狡猾な生き物です。 自分の目的を果たすため、自分の利益を得る為ならば、平気でその魂を汚すのですよ。 喩え、それが神に仕える身であろうとね。 プロテスタントがそのいい例です。 彼らは、毎朝毎晩、隣人愛を祈っておきながら、右の頬を叩いた相手に対して、躊躇う事無く空爆を試みたではありませんか。」
ヴァレンティーノは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
このロシア人の、長々とした演説癖が、彼はどうしても好きになれなかった。
「そして、それはユダヤ人も同じです。 彼らはアラブゲリラに対するスリーパー(潜伏スパイ)として、憎むべきアラブ人であるはずの彼を育てました。 そして彼は、イスラエル人たちの望むままに、同族を滅ぼす刃となったのです。 アラブのゲリラ達は、彼の事を“猛毒の竜”の名で呼び、畏れ忌み嫌いました。」
「……………。」
「彼の暗殺者のしての優秀さに、疑問を挟む余地はありません。 次の作戦に於いて、彼が現場で指揮を取る事となるでしょう。 ヴァレンティーノ・ファミリーのいざこざに、我々が介入する形となりますが、許可を戴けますかな?」
ビーナは言った。
それが承諾の依頼ではなく、命令であるという事を、一も二もなくヴァレンティーノは理解していた。
棗春彦は、ホテルのバスルームで、身体に付着した血液と硝煙を洗い流していた。
ボディソープに中和されたヘモグロビンが、シャワーの湯と共に排水溝に流されてゆく。
年齢にそぐわぬ精悍な肉体は、青年の生きてきた過酷な年月を暗に語っているようだった。
その肉体の上には、無数の弾痕と抜糸の痕が、縦横無尽に走っている。
その内の一つ、9mm口径の弾痕に目をやる。
青年の表情に、わずかに翳りが見えた。
ホテルのロビーでは、同じくシャワーを浴び終えたアイリス=マクドゥガル、劉黒龍、キャサリン=シーカー、間宮圭、レイン=フェルモンドの五名が待機していた。
春彦が来たのを確認すると、まずアイリスが立ち上がった。
「春彦、集合時間の一分前よ。 最低でも刻限の五分前には集合しなさいって言ってあるでしょ。」
「済まない。 シャワーの出が悪くてな。」
春彦は、それだけ言うとさっさと席に着いた。
ラフな格好ではあるが、腰のベルトにはしっかりと、黒光りするシグ=ザウエルが差されていた。
「それじゃあ、まず」
アイリスが口火を切った。
「貴方がヴァレンティーノ・ファミリーから盗んだ品物を出してもらえるかしら。」
「その前に貴方達の身分を明かしてください。」
レインは頑として言った。
五人の顔が、一斉に強張った。
「もし、貴女がそれを望むのであれば明かすけれど。 でも、さっきも言ったように、私達の正体を知った所で貴女の得る物は何もない。 むしろ、今後の貴女の人生にデメリットの生じる事の方が遥かに多い。 それでもいいのね?」
「構わないわ。 でも、嘘だけは付かないで。」
「わかった。」
アイリスは観念したように溜め息を付いた。
「私達の背後にいるのは、国際連合よ。」
アイリスは静かにその話を始めた。
「国際連合の所有する非合法組織、正式名称・越境国家保安対策委員会。 通称、自由騎士団《ディナ=シー》。 設立目的は、世界の調律を図る努力をする事。 抽象的な理念だと思うかも知れないけど、やる事は遥かに具体的かつ直接的よ。 その活動内容は、世界経済及び世界情勢に対し、深刻な打撃を与えると判断された団体及び個人に対し、武力を行使する事。 その為なら私達は、国際法を破戒し、警告無く武力行使に打って出る権限を、国際連合から与えられている。」
「何ですって!!」
レインの顔色が変わった。
それほどその内容は衝撃的だった。
国際連合……国際連盟に代わる、世界最大の国際平和統治機構。
彼らの言う話がもしも事実ならば、それは戦後世界の国際平和と安全維持を目的として作られたこの機関が、自ら武力を奮っているという事に他ならない。
「勿論、これには条件があるわ。 それは、連合加盟国の、表に出る事のない代表者達の審議の末、当事国を除く国家の過半数が賛同の意を示す事。 これは、国家間の主義思想の相違を、可能な限り考慮したシステムよ。 故に、実際の任務に当たる私達には、戸籍も無ければ国籍もない。 宗教も禁止されている。 エスペラント語と同じ、完全に世界の中立に立つ存在よ。 だからこそ、どこの国でもどこの誰とでも躊躇する事無く戦える。 たとえそれが米国の大統領だろうと。 それが法王庁の法皇であろうと。」
アイリス=マクドゥガルは淡々と、そして淀みなく言った。
それが、より一層、この話が事実である事に真実味を持たせていた。
「………そんな事、許されるはずが――――――――」
「仕方ないわ。 光の対極には必ず影が出来る。 草木を育てる為には、誰かが間引きをしなければならない。 その汚れ役が私達。 私達が存在する事で、独裁者の暴走を防ぎ、武装団体に対し、無言の圧力をかける事が出来る。 火種の小さい内に揉み消す事で、大局的な被害を最小限に抑えることが出来る。 覚えておいて。 この世界は、貴方が思っているよりも、はるかに汚れている。 紺碧の海原が、その腹の内に想像を絶する深淵の闇を抱えているように。」
「………………。」
レインは絶句していた。
それは、彼女の理解の範疇を、完全に超越した次元の話だった。
あまりにも荒唐無稽で、ジョークかどうかを吟味するのさえ愚かしい、あまりにも馬鹿馬鹿しい話。
もし12時間前の彼女が、同じ話を聞いていたとしても、容易く一笑に伏した事だろう。
だがしかし、彼女は目撃してしまっていた。
特殊部隊並みの、刹那の制圧劇。
視認する事さえ適わなかった、この日本人の、雷鳴のような射撃。
ウェストサイド=ハイウェイでの、映画さながらのギャング達との銃撃戦。
ハミルトン=エイヴでの殺し屋達とのカーチェイス。
まるで、自分がジョン=ウー監督の映画の中の世界に迷い込んでしまったようだった。
何もかもが荒唐無稽で、何もかもが気違いじみていて、何もかもが壊れていて、そして、何もかもが現実だった。
自分が確固として信じていたこの現実が、足元から崩れてゆくような。
信じられなかった。 信じたくなかった。
信じてしまえば、自分の正義がいかに詮無い物であったのか知ることになる。
自分が、ただ世界という海原の表層の上を跳ねていただけの飛魚に過ぎなかった事を知ることになる。
そして、この世界が、永劫に続く悪魔達の営みの上に成り立っているのだという事を。
「嘘よ……そんなの。 だって、それじゃあ………」
「仕方のない事なのよ。 もし、世界の全てが平和を望んでいたなら、きっと私達は作られなかった。 作られる必要も無かった。 でもそうはならなかった。 国家はいつだって自分の国の事しか考えていないし、宗教団体は自分の教義を遵守する事に努め、異教徒の弾圧に精を出している。 暗黒街の住人達は言うに及ばず、世界に名だたる企業団体でさえ、他人を出し抜くことしか考えていない。 資本主義は確かに素晴らしい考えかも知れないけれど、その競争性故に、人間の暗黒面をも顕現させる結果に陥らせてしまった。 だから、誰かがその危うい均衡を維持しなければならない。 その為に私達が作られた。 私達の存在が必要だったから。 私達、《ディナ=シー》が。」
「………………!」
レイン=フェルモンドは正義を信じていた。
喩えそれが、無形の概念であろうと、きっとそれは存在するのであろうと、頑なに信じていた。
それは、インディオであった彼女の養父が、彼女に教えた事だった。
正義はあるのだと。
たとえ、それぞれの人間に立場の違いはあれど、厳然とした正義はある。
人間は、自ら本能から独立した意思を持ったが故に、『悪』という概念を生み出した。
それは、人類の始祖が知恵の実を食べた時からの原罪だ。
そして、だからこそ『正義』もまた存在するのであると。
だが、そうではなかった.。
彼らの存在は、その養父の教えを丸ごと否定するものだった。
この世に正義はない。
この世を動かしているのは悪魔達に他ならない。
悪魔に、悪魔は裁けない。
だから、自分たちがその芽を刈り取り、人為的に調和を成しているのだと。
棗春彦は、自室のベッドにその身を横たえていた。
弾力に富んだスプリングが、疲れた肌に心地いい。
一晩張り詰めさせていた緊張感を、ようやく少しだけ緩める事が出来た。
今夜は疲れた……本当に。
本当は酒でも――――特に、お気に入りのマッカランをロックで呑んでから眠りに落ちたいところだが、職務柄そうも行くまい。
明日の朝、ディナ=シーのワシントン支部からやってくる本部の人間に、あのレイン=フェルモンド婦警の盗んできた、マージ・ノーラの明細の入ったMOディスクを明け渡して、初めて任務は完了となる。
MO。
そう、レイン=フェルモンドが、ミッドタウンのカジノで盗んできた品物は、MOディスクだった。
そこには、マージ・ノーラの精製法から、その原料の流通ルートに至るまで、膨大な量のデータが詰め込まれていた。
この情報をアングラで捌けば、軽く500億ドルにはなるだろう。
何しろ、マージ・ノーラの精製法は、黒社会のトップシークレットであり、そしてマージ・ノーラは、今正に加速的なブームを迎えつつあるからだ。
ロシアンマフィアやコロンビアマフィア辺りに吹っかければ、その10倍の値段でも買ってくれるに違いない。
このドラッグは、世界の麻薬市場の均衡を、一気に破壊するだけの力を持っている。
そして、だからこそ今、完全に息の根を止めなければならない。
今夜一晩だ。
今夜一晩乗り切れば、それが叶う。
しかし、棗春彦にとって、それはどうでもいい事だった。
ただ無心に世界平和を願うほど、彼は純粋でもなければ愚かでもない。
誰が死のうが救われようが、ヴァレンティーノ・ファミリーがどうなろうが興味がない。
彼が見ているのは、ヴァレンティーノ・ファミリーの背後にあると目される、とある組織だった。
“デウス”。
3年前、春彦と接触をもったその組織の構成員は、自分達の事をそう名乗った。
ギリシア神話における、最高神の名を冠する組織。
そして、その最高神と同じく、世界に混沌をもたらす組織。
その組織が、自分にした事を、彼は生涯忘れない。
その組織が、自分から奪った物を、春彦は永劫に忘れない。
春彦は、瞑想しながら、静かに目を閉じた。
眠りは間も無く訪れた。
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