「何てぇこった!!」
もうもうと舞い上がる粉塵の中、横転した車から降りたギャングの一人が悲鳴をあげた。
その拍子に、その場に立ち込めるアスファルトの埃を深々と吸い込んでしまい、その男は思わず咽せ返った。
爆発の衝撃で、トンネルの照明はあらかた掻き消えており、光源は、わずかに外から差し込む月明かりだけだった。
「あの野郎共! よりによって手榴弾なんか使いやがった!!」
赤とグレーのストライプのスーツに身を包んだギャングは、運悪く前を走っていたために、爆発の直撃を被った同僚の方を見据えた。
まだ煙は収まっておらず、視界は非常に困難だった。
「ユリアーノ! パッセ! ジョーン! クラウディス! エミリオ! ジョゼフ! 生きてるか!? 生きてるか!!?」
ギャングは、負傷した腕を抱えて、仲間の名を叫んだ。
彼の呼んだ男達の返事は無かった。
幸い、火の手は上がっていないようだった。
ギャングは、車のダッシュ・ボードから携帯用の非常電灯を取り出してくると、先の道を照らし出した。
しかし、塵の乱反射でほとんど何も見えなかった。
「畜生!」
男は思わず叫んだ。
その時、煙の中から幾人かの人影が姿を見せた。
一人は半身に火傷を負っており、二人の男に肩を支えられて、ようやく歩けるような状態だった。
その二人も無傷ではなかった。
「手前ら、生きてやがったか!」
ギャングは興奮して言った。
「引き返すんだ!」
二人の男は、ギャングの呼びかけには答えず、そう叫んだ。
「この先は駄目だ! 手榴弾で道路がエグれちまってやがる!! バギーでだって通れそうにねぇ!!」
Gun Crazy
CASE 01 Highway StarD
「危なかったぜ!」
薬莢の尽きたAK74を空撃ちしながら、劉黒龍は叫んだ。
時刻は、ちょうど日付の変わる頃だった。
現在は、サウス=ブルックリンの通りを幾らか抜けたところである。
バッテリートンネルでの銃撃戦以来、ギャング達の姿は一向に見えなかった。
アイリス=マクドゥガルは、安堵と、幾許かの不安を感じながら560SLのステアリングを切っていた。
「あと1分も続いてたら、こっちが弾薬切れで蜂の巣になるところだった! ありがとう、リトル=イタリーの神様!」
黒龍は、本気とも冗談ともつかずに、今はイースト=リヴァーの彼方になってしまったリトル=イタリーの方角に筒を向けた。
「残りは何挺だ?」
傍らの春彦に、黒龍が尋ねる。
春彦は、その質問に答える前に、ハッカのパイプを懐から取り出すと、大きく息を吸い込んだ。
ハッカの、刺激的に過ぎる清涼な香りが、車内に満ちた硝煙の匂いを掻き消してゆく。
熱気で乾いた喉に、ハーブの香気が心地よかった。
「ベルナルデリーはもう二発で打ち止めだ。 あとはステアーM69に、イングラム=マック10とザウエルのP226がそれぞれ二挺、とっておきは、携帯用のグレネード・ランチャーだ。 一発限りだがな。 あとはお情け程度に、S&Wのチーフス=スペシャルがある。 9mmパラベラムの残弾は、残り70発くらいだ。」
「70発だって? イングラムだったら3秒しか保たねぇじゃねぇか! 手ぶらになったらフォースでも使って戦えってのか?」
「イングラムは止めとけ。 あの方向音痴の銃が、こんな公道で命中する訳が無い。 弾をドブに捨てるようなもんだ。」
春彦は、自動拳銃を弄びながら淡々と云った。
黒龍は、それについては何も抗弁しなかった。
「どちらにしろ」
春彦は云った。
「保って、あと一回だ。 それまでに逃げ切れなければ、この黒塗りのベンツが俺達の棺桶になる。 墓標は、トライ=ポインテッドだ。 日が昇れば、アッパー=イースト=サイドのアル中の神父様が、空薬莢を拾って『アーメン』と唱えてくれるだろう。」
「冗談じゃないわよ!」
運転席で、アイリスが叫んだ。
「アタシの棺桶は、真っ赤なフェラーリ・テスタロッサの運転席って決めてるのに!」
「逝きたきゃ勝手に逝きな、スピード狂! 俺は御免だぜ!」
黒龍は、流暢な英語で云った。
上海訛りはまるで感じられなかった。
「貴方達は」
唐突に、560SLの助手席にいたFBIの麻薬捜査官が口を開いた。
「一体、何者なの?」
レイン=フェルモンドは、小一時間前にしたのと同じ質問を、もう一度口にした。
時間を置くに連れて、落ち着きを取り戻してきたらしい。
「貴方達はさっき、自分達は麻薬取締局だって云ったけど、アレは嘘よね?」
彼女は、確かめるようにアイリスの横顔を見据えた。
アイリスの視線は前に向けられたままだった。
フロントガラスの左手には、ちょうどプロスペクト=パークのイルミネーションが見えたところだった。
レインは、その反応を肯定と受け取った。
「さっきの、貴方達の手際を見てて思ったわ。 あの、目的のためなら手段を選ばないやり口……まるで、どこかの情報機関の破壊工作員みたいだったわ。」
「俺達がCIA(米国中央情報局)の人間だとでも言うのかい?」
後部座席で、黒龍が含み笑いを洩らした。
「そうは言ってないわ。 でも、貴方達が破壊工作の専門家であるのは間違いないでしょう?」
「―――――――」
誰も、その質問に答える事はしなかった。
棗春彦も、劉黒龍も、アイリス=マクドゥガルも、一様に無言だった。
そして、それはレイン=フェルモンドの推測が間違いでない事を示していた。
「成る程―――――」
黒龍は、懐からメンソールを一本取り出して、火をつけた。
この上海人が煙草を吸うのを見るのは、春彦は随分久しぶりに思えた。
「無計画で無鉄砲な、ただの正義気取り女かと思ったら、人並みの観察力は持ってるって訳か。」
その言葉は、紫煙と共に吐き出された。
春彦が顔をしかめたのを、バックミラー越しに確認したアイリスは、後部のウィンドウを半開きにした。
「いや、なかなかいい線行ってるぜ。 だが残念ながら、完全な正解じゃあない。 そして、おそらく正解に辿り着く事はない。 辿り着かない方がいい。」
「…………何故?」
「言っても信じない。 ただ一つ言える事があるとすれば、それは俺達が絶大な組織力をもった機関の人間だって事だ。 おそらくは米国防総省級のな。 今夜の事件は、ニュースにはならないし、新聞にも載ることはない。 あれだけの死傷者を出し、公共物を破壊し、目撃者も五万といるのにも関わらず、だ。 たとえば、今すぐどこぞの野次馬が、ニューヨーク=タイムズ社に、今夜の事件の写真を売り込みに行ったとする。 おそらく、何も聞かされていない新聞記者は、喜んでそのスクープを記事にし、輪転機を止めて記事を差し替えるだろう。 しかし。 しかしだ。 翌日、その新聞の一面には、何故かハリウッドの有名女優のスキャンダルが、不自然なまでにデカデカと出てるのさ。 載るのはせいぜい、どこぞのカジノで小火が出たって事くらいさ。 そして、何故かその野次馬は、次の日から行方不明になっちまうんだ。」
黒龍は妙に明るく云った。
しかし、その口調の底には、言い知れぬ不敵さがあった。
ただのジョークではなかった。
「…………それは、恫喝なのかしら?」
「好きなように受け取ればいい。 受け取り方を間違えさえしなければな。」
「喋り過ぎだ、黒龍。 もう黙るんだ。」
有無を言わせぬ勢いで、春彦が横から嗜めた。
「でもよ、春彦―――――」
「黙るんだ。」
春彦が、黒龍を視殺する。
有無を言わせぬ圧力に、黒龍は言葉を失った
「興味本位の詮索はそこまでにするんだな、ミズ=フェルモンド。 ここまでならまだ聞かなかった事にできる。 ここまでなら。 この先を聞けば、もう聞かなかった事にはできない。 そいつは、合衆国の中でも、ほんの一握りの軍関係者と警察上層部のみが知る事のできる最重要機密事項だからだ。 もし、知ってしまえば、君はFBIの中では一生出世できない。 一生。 いや、FBIに限った事じゃない。 おそらくは、ありとあらゆる公的機関において、君は役職面において半永久的に冷遇され続けるだろう。 私生活にも監視の目がつき、行動も著しく制限を受ける事になる。 そして、最悪の場合、君の存在そのものが抹消されかねない。 社会的にも、そして物理的にもだ。」
春彦の口調は、いつになく流暢だった。
しかし、それは決して軽薄ではなかった。
「だから、それは――――」
「恫喝じゃあない。 これは警告だ。 俺は冗談を言っている訳じゃない。 いいか? 君は自分の置かれている立場をまるでワカっちゃあいない。 俺達がCIAだろうがKGBだろうが、そんな事は今問題じゃないんだ。 問題は、君が今、そういった組織とギャング達との、決して語られることのない抗争に立ち会ってしまい、あまつさえ、その抗争の鍵を握るキーアイテムを手にしてしまっている事が問題なんだ。 いや、そこまではまだいいとしよう。 だが、しかし、君はそれを盾にとって、俺達と取引をしようとしている。 そうする事で、自分が取り返しのつかない状況に追い込まれる事になるのも知らずにだ。 ワカるか、君と俺達は決して対等の立場じゃないって事が。 例えば――――」
春彦の腕が消えた。
いや、消えたように見えた。
それは、おそらく雷鳴の轟きよりも速い刹那の瞬間だったに違いない。
シグ=ザウエルP226。
世界中の、多くの軍隊で正式採用されている、その38口径の自動拳銃が、レインの額をこれ以上ない程正確にポイントしていた。
意識の間隙に割り込んできたその動作に、レインは恐怖を感じる間もなかった。
数瞬遅れて、レインはようやく、今自分がどういった状態にあるのか認識した。
この日本人の気紛れ一つで、容易く自分の命が消し飛ぶという事に。
「俺がその気だったら、君は今頃、幼馴染のいるお花畑の向こうに行っていた所だ。 そして、俺達は、動かなくなった君から、悠々と目的の品を奪えるって寸法だ。 何のリスクもなく。」
「……………ッッ」
レインは声も出なかった。
突然目の前に現れた、『死』という酷薄な現実を目の当たりにして、全身が凍ったように硬直していた。
「もういいだろう? ヤツらから奪ったものを渡してくれ。 俺だって、無用な殺しはしたくない。 もし嘘なら、一応身体検査はさせてもらう。 そして、全てを忘れて、元の通りに――――――」
「冗談じゃないわ!」
春彦の言葉を遮ったのは、レインの叫びだった。
「それで、一体、何が変わるって言うの!?」
春彦は、一瞬呆気に捉われた。
一体、銃を突きつけられているというのに、この威勢は何なのか?
一瞬の逡巡の末に、春彦は思い出す。
あの、ギャング達にサブマシンガンを突きつけられていた時の、彼女の胆力を――――――
「貴方達はいいかも知れない! でも、それで何が変わるって言うの!? 一体、マージ・ノーラの犠牲になった人達の中で、何が救われるって言うの!? 彼らが求めているのは、ヤツらが法的に裁かれる事よ!? 知らない間に、知らない人達にいいように事態を引っ掻き回されて、はい、マージ・ノーラは撲滅されました、じゃ、彼らは何も救われない! ただ殺されても、ヤツらは悔い改める事もなければ、反省する事もない! ただ、それが終わるってだけじゃない!! それで一体、誰が救われるの!? 」
「救われるさ。」
そう云ったのは黒龍だった。
「少なくとも、ヤツらを潰さなかったら、マージ・ノーラの餌食になってただろう未来の被害者達は。」
「――――――――」
「俺達は全能じゃあない。 誰も彼も救うことのできる力なんて持ってやしない。 俺の能は、物を壊すことだけだからな。 だがな、何かを壊す事で救われる命だってあるんだよ。 そいつは手前らの正義とは相反するものなのかも知れねぇがな。」
「……………。 貴女もそうなの?」
レインは、銃口を尻目に、傍らで黙々と運転に集中しているアイリスに矛先を向けた。
アイリス=マクドゥガルは、少し考え込むと、その質問にゆっくりと答えた。
「悪いけど……私は、貴女みたいに、明確な主張を持ってこの仕事をしているんじゃないわ。」
「――――――――」
「私は、ヴァレンティーノ・ファミリーに何かを奪われた訳でもなければ、私怨がある訳でもない。 誰かを救いたいとか、何かを裁こうとか、そんな大義がある訳でもない。 ただ、仕事だからやってるだけよ。」
「……………。」
レインは、急に押し黙った。
激昂が、沈むように萎えて行くのがワカった。
半ば予想していた答えではあったが、実際にその言葉を口にされると、否が応でも価値観が異なることを実感せずにはいられなかったからだ。
この人達は、自分の意思とは関係のないベクトルによって、彼らと戦っているんだ――――――
不意に、そんな感慨が頭をもたげた時だった。
メルセデス=ベンツ560SLの、すぐ手前を走っていた軽車両から火の手が上がったのは。
「!!?」
軽車両は、コントロールを失うと、横滑りに道路の端に激突した。
アイリスは、咄嗟にステアリングを切って巻き込まれるのを回避する。
その直後、サブマシンガンの銃声が上がり、軽車両のエンジンルームが炎上した。
あれでは、爆発するのは時間の問題だ。
アイリス=マクドゥガルの耳は、先の瞬間、確かに捕らえていた。
フリーウェイの風切り音に紛れて放たれた、5.56mm高速弾の狙撃音を―――――――
「アイリス、今の………」
「………ええ、間違いないわ。 狙撃ね。」
春彦と黒龍は、即座に銃器を構え直した。
トリガーに、指がかかる。
警戒レベル4……すなわち臨戦態勢だ。
「気をつけなさい……相手はライフルを持ってるわ。 気を抜けば一撃でやられるわよ……。」
アイリスは、徐々に560SLのスピードを上げてゆく。
レインは、そのステアリングが濡れている事に気づいた。
(何? また銃撃が始まるの!?)
再び動悸が加速を始めたレインは、バックミラーに真紅のルノー21が写っている事に気が付いた。
奇妙な事に、そのルノー21のサイド・ウィンドウからは、黒い筒を持った少女が身を乗り出していた。
「ああぁ……気持ちイイわ。 気持ちイイわ。 気持ちイイわ。 やっぱり、試射の的は生身の人間に限るわね。」
高速でフリーウェイを駆け抜けるルノー21の助手席で、ニコラシカは恍惚となっていた。
今しがた、発砲したばかりのガリル・アサルトライフルからは、まだ硝煙があがっている。
そのサイドウィンドウの向こうに、今しがた撃墜したばかりの軽車両の残骸が見える。
そしてそれは、すぐに後方に消えていった。
「ニコラシカ! 手前、自分が何やってるか、ワカってンのか!?」
そう叫んだのは、運転席のラザロ=マルティネスだった。
「あはは、ごめんごめん。 ついうっかり的を外しちゃったのよ。 走ってる車を狙い撃つのって難しいわねぇ〜?」
ラザロは、それが嘘だと知っていた。
この女は、その気になれば、400ヤード先のマッチ箱を、風見無しで狙い撃つ事ができるだけの技量を持った狙撃手なのである。
増して、先の狙撃は、走行中の軽車両のエンジンタンクを寸分違わず撃ち抜いていた。
外れ弾である訳がない。
「ふざけた事を……! いいか、無関係の人間まで、手前の狂った楽しみのために巻き込むんじゃねぇ! ならず者にだって、最低限の不文律は在るんだ!」
「ふふ、何モラリストぶってるのよ、殺し屋の助力で食ってる人間が。 それとも、自分で手を下さなければ、自分の手は綺麗なままだとでも思ってるの?」
「こいつはプロとしての美意識の問題だ。 次に無関係の車両を撃ってみろ。 すぐに手前をここから放り出すぞ。」
「はいはいっ……と。」
ニコラシカは生返事を返した。
ラザロが、本当にワカってるのか、コイツ、と危惧を抱いた次の瞬間だった。
ニコラシカは、あろう事か、前を行く560SLの周囲にある車両群に向けて、ガリル突撃銃をフルオート連射した。
幾重もの悲鳴と、耳障りなタイヤの摩擦音。
炎に包まれる、車の数々。
それらが、動く障害物となって、560SLの行く手を阻んだ。
「手前!!」
「あはははは! いやー、知らないうちにトリガー引いてたわ〜。 ちゃんと安全装置かけてたつもりだったけど、かかってなかったみたいねー。」
スピンを起こした車両群が阻んだのは、560SLの行く手だけではなかった。
無論の事、ラザロの駆るルノー21の行く手にもそれは迫ってくる。
ラザロは、思い切り左にステアリングを切ると、対向車線に侵入してそれらをやり過ごした。
しかし、その時、ルノー21のフロントガラスに、何かが小気味良い音を立てて弾かれた。
9mmパラベラム弾。
向こうもこちらに応戦してきたのだ。
しかも、その狙いの正確な事といったら、そこいらの特殊部隊も顔負けだった。
もし、このフロントガラスが防弾仕様でなければ、銃弾は間違いなくラザロの眉間を貫いて、脳骸を掻き回していた事だろう。
蛇行運転をする車両の上からの射撃である事を考えると、その腕前はニコラシカとも肩を張るかもしれない。
「一体、何者だ……。」
ラザロは、脊髄に悪寒が走り抜けてゆくのを感じていた。
その時、不意に後部座席のサイド・ウィンドウが開かれた。
サイドミラーを見ると、AK74突撃銃を構えたオリガ=ストレイヴィチが、同じく窓から身を乗り出していた。
「随分、熱烈なラブ・コールだな。 いいだろう、コールにお答えしようじゃあないか。」
いつもは仮面のように表情のないオリガの口元に、獣の笑みが浮かんでいるのが、ラザロの瞼に写った。
「何て事を……。」
レイン=フェルモンドの額に、冷や汗が浮かんでいた。
その瞳は、今、正にサイドミラーの向こうで燃え盛っている車の墓場を見ていた。
「……狂ってるぜ。 間違いなく、狂ってるぜ。」
ステアーM69・サブマシンガンを構えながら、劉黒龍は云った。
「見たか? 全くの無差別攻撃だ。 俺達だけを外してな。 コイツは、よっぽど相手の腕がヘボいか、あるいはその逆かどっちかだ。」
「前者なら楽なんだがな……どうやら、世の中、それ程甘くないみたいだな。」
「嗚呼、神よ。 貴方は何故、かくも残酷であらせられるか?」
黒龍は歌劇の一節を演じるかのように芝居じみた口調で云った。
「ところで、乗組員諸君。 ここに一つ、重大な問題があるんだけど。」
アイリスが冷や汗混じりに云う。
「オーケイ。 聞こうか、アヴェ=マリア。」
「燃料がそろそろヤバいのよ。」
云われて、黒龍は、ガソリン・メーターに目をやった。
残量はかなり少なかった。
考えてみれば当然だ。
今夜はあまりに長い間、最高速を出しすぎた。
「勘弁してくれ……。」
一体、この場で信頼に足るものが一つだってあるだろうか?
いいや、それは考えるだに虚しい事だ。
信じられるのは、自分のこの腕一つだ。
何を今更、ワカりきった事を反芻するのか。
「ことに、ミズ=フェルモンド。」
棗春彦が口を開いた。
「先に言っておくぜ。 頭を低くしておいた方がいい。 今この瞬間において、俺達はアンタの身の安全を保障できない。 流れ弾に当たってアンタが向こう側に逝ったとしても、それはアンタ自身の自己責任でやってもらうしかない……」
その、あまりに身勝手な言い分に、レインは一瞬、激昂しそうになった。
いや、場所が場所なら問答無用ではたき倒していたに違いない。
しかし、現在がそういう状況でないこと位は彼女もワカっていた。
しかも、その原因の半分は彼女にあるのだ―――――――
「……ワカったわ。 でも、その代わり、約束して。 事が終わったら、さっきの質問に答えてくれるって。」
「………いいだろう。 ご期待に添えるかどうかはワカらないけどな。」
春彦が答え終わるより早く、ルノー21の両サイドがチカチカと光った。
アサルトライフルのマズル・フラッシュだ。
敵はどうやら二人らしい。
そして、春彦の視力が正常であるなら、その内、片方は、年端も行かぬ少女であった。
「………見覚えがあるな、アイツ。」
黒龍が云った。
「何だって?」
「向こうの、あのガリル突撃銃を構えたお姫さまだよ。 面識がある訳じゃないが、おそらく俺はアイツを知っている。 上海にいた頃に、何度か写真で見た覚えがある。 あの整形で造った悪趣味なロリータ・フェイスは、忘れようったって忘れられねぇ。」
「上海……すると、幇(中国マフィア)か?」
「正確には、幇じゃなく、幇に雇われた客分みたいな役だった。 ニコラシカ=ターレス。 ウクライナ人の殺し屋だ。 元はシンガポールの華僑の用心棒をやっていたが、御覧の通りの凶悪すぎるやり口のせいで、同僚からも嫌われていた。 何しろ、ヤツは真性の殺人マニアだったからな。 俺の知る限り、ヤツが一年以上同じ契約先に腰を落ち着けた事は無い。 おそらく、上海にも居場所がなくなって、N.Yに来たんだろう。 ヤツは、人望はないくせにどういう訳か独自の武器流通ルートを確保している。 火力は相当なもんだと思っていい。 俺が最も敵に回したくない人間の一人だ。」
「それ程のもんか、あのお嬢ちゃんは……。」
「止せ、アイツはお嬢ちゃんなんて年齢じゃねぇ。 ああ見えて、アイリスよりも歳が行ってる。」
キュルルゥ〜〜〜〜ッッ!
560SLが、思い切り横滑りした。
反動で、黒龍達の身体がサイド・ウィンドウに叩きつけられた。
「〜〜〜〜ッッ! ッッ痛ぇぇ――――――――ッッ!!!」
「黒龍。 アンタ、言葉選ばないと窓から放り出すわよ?」
「お前こそ時と場所を弁えろ、馬鹿! 蜂の巣になってもいいのか!?」
実際、窓から上半身を乗り出させていた黒龍は、運転席に罵声を浴びせた。
パァン!と、破裂音が車内に響き渡ったのは次の瞬間だった。
先の瞬間まで黒龍の立っていた空間を、ちょうど突っ切る形で、リア・ウィンドウに銃痕が残っていた。
しかも、それはレインの頭上を抜けて、フロントガラスに弾丸を半分めりこませた所で止まっていた。
アサルトライフルの貫通力が、防弾ガラスの強度を凌駕していたのだ。
レインが悲鳴を上げた。
「洒落になってねぇぜ……!」
死神が、死へのカウントダウンを始めたようだった。
「遊びは終わりよ。」
オリガ=ストレイヴィチは、新たに5.45mm小口径高速弾をAK74に装填した。
「どうしたんだ、ニコラシカ先生? 今日はまだ一発も相手に当ててないようじゃあないか。 それとも何だ? “悪戯少女”の異名は、本当にただ悪戯するだけの少女と、そういう意味なのかい?」
ラザロが、揶揄するように傍らのウクライナ人に云った。
ニコラシカ=ターレスは、何も答えずに、黙々と、撃ち尽くした5.56mm高速弾を補充していた。
「…………?」
ラザロは、訝しげにそちらを覗き込む。
見ると、ニコラシカは笑っていた。
気味の悪いほどに口唇の端を吊り上げて、何かをぶつぶつと呟いていた。
「……ロン……ヘイロン=リュウ…。」
ヘイロン=リュウ。
かろうじてその単語が聞き取れた。
それは中国人の名だった。
そういえば、さっき、560SLのサイド・ウィンドウから身を乗り出させたのは、東洋人ではなかったか。
それも、黄色人種の。
「ニコラシカ。 あの東洋人を知っているのか?」
ラザロは、沈黙に耐え切れずに云った。
ニコラシカがそれに応じたのは、数秒間を置いてからだった。
「知ってる。 知ってるわ。 上海の暗黒街で、あの男の名を知らない奴はいなかった……。 あの刀傷の上海人の名を。」
ニコラシカの声は震えていた。
それが歓喜によるものか、恐怖によるものか、ラザロにはわからなかった。
「何者だ?」
「同業者よ。 正確には、元・同業者よ。 奴は数年前まで、上海の白虎幇で凶手(暗殺者)をやっていた。」
「白虎幇だと!? あの、広東一帯を支配する………」
「そう。 奴はそこの凶手だったの。 それも、最強の凶手だった。 奴の動向一つが、組織の最高決定機関の合議にも影響を及ぼす程のね。 ところが、奴は数年前、忽然と消息を絶った。 いかに最強の凶手といえど、人の子。 四六時中、気を張っていられる訳じゃない。 結局、奴の突然の失踪は、対立勢力に消されたという事でケリが着いたわ。 しかし、まさか、太平洋を挟んだこんな異国で会えるとは思っても見なかったわね。」
「……じゃあ、何か。 今回の一件、裏で動いているのは白虎幇か?」
「それはないわ。 奴らとて馬鹿じゃあない。 悪戯に他組織の縄張りを侵すような事はしないでしょう。 それに、リスクを犯してこんな隔地に縄張りを作ったとしても、本国の得られる利潤は微々たるものよ…。」
「じゃあ、一体、奴らは何者だってんだ!?」
「ワカらない。 私達の仕事は考える事じゃあない。 そんなものはお偉い相談役に任せておけばいいわ。 力ずくで捕らえて、洗いざらい吐かせる。 それが私達の流儀でしょう?」
「違いない!」
ラザロがアクセルを踏み込むと、ルノー21は急加速を始めた。
現在、時速100マイル。
エンジンにターボチャージャーを取り付けてあるこのルノーにはまだまだ余裕がある。
逆に、長時間150マイル近いスピードを出し続けてきた560SLの方は失速を始めたようだった。
「そろそろ、終幕かな……。」
ニコラシカとオリガが、ライフルのスコープを覗き込む。
イスラエル製の牙と、ソ連製の牙が、560SLに狙いを定めていた。
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||