アシュリー=シュマイカーと、そのボディ・ガード、モリッツィオ=タミーノは、ホテル=カサブランカのスイート・ルームに部屋をとっていた。
本来ならば、悠長にホテルに構えていられる事態ではないが、この先約だけはどうしても外す事ができなかったのだ。
待ち合わせの時刻まではまだ5分程あったが、すでにアシュリー=シュマイカーは待ちに待っていた。
もう、ハヴァナの葉巻は4本目に差し掛かるところだった。
モリッツィオは、これ程までに神経質になっている彼女を見たことはほとんど無かった。
何せ、彼女は、ゴッド・ファーザーであるガーネスト・ヴェレンティーノにすら、刻限への遅刻について文句をつけるような、傲岸不遜な女性なのである。
そして、モリッツィオは、今日、これから会う相手について、何も聞かされてはいなかった。
その会談相手の暗号名が、『Bйна』というロシア語であるという事以外には。
「僭越ながら、ミズ=シュマイカー……」
モリッツィオは云った。
「何だ、モリッツィオ。」
「これから逢う人物に、危険はありますか?」
モリッツィオ=タミーノは至極冷静だった。
この傷顔の男には、どういった感情も無いようだった。
「どういう意味だ?」
アシュリーが尋ね返す。
「もしも、それが危険な人物であるのならば、私もそれなりの心積もりで臨まなければなりませんので。」
モリッツィオは、懐に忍ばせたオートマグVをちらつかせた。
その凶器は、アシュリー=シュマイカーの猟犬として殉ずる覚悟の証でもあった。
事実、そのモリッツィオの“牙”は、数多の抗争の末に、悉く仇敵を屠り去ってきた。
そして、それ故に彼は、彼女の親衛隊長を委任されているのである。
「それに関しては、お前に云う事は何も無い。 いいか、私がこれから逢う相手は、閻魔だ。 閻魔なんだ。 いくらお前が、その長銃身の45口径を見せて凄んで見せたところで、おそらくその男は眉毛一つ動かさないだろう。」
「何者ですか、それは……。」
「タミーノ。 貴様は、詮索は寿命を縮めるという、この世界の大原則すら忘れたというのか? シチリア人であるお前が?」
アシュリーが、4本目の葉巻を灰皿に押し付けた。
火種はすぐに揉み消された。
「申し訳ありません、ミズ=シュマイカー。 失言でした。 何分、こちらとしても、警備には細心の注意を払わねばなりませんでしたので……。」
「正しい心がけだ、タミーノ。 少なくとも、あの、獲物を前に悠々と演説を続ける役立たずのロッシよりはな。 だが、二つ覚えておけ。 世の中には、どうあっても挑んではならない相手がいるという事と、そして、世の中には拳銃の通じない相手がいるという事を。」
「? ミズ=シュマイカー……それは一体どういう――――――――」
その瞬間だった。
部屋に備え付けられていた内線電話が、けたたましい音をたてた。
モリッツィオが受話器を取ると、すぐにフロントの職員が電話を取り次いだ。
受話器の向こうから、ひどく中性的な男の声が聞こえてきた。
「こちら、イタリアン・レストラン、“クチーナ=スタジオナル”です、アシュリー=シュマイカー様。 ご注文は、モッツァレルラ・ピッツァ3枚でよろしかったですね? トッピングはいかがなさいましょう?」
アシュリーが、モリッツィオから受話器を受け取る。
「ムール貝とアンチョビを。 それから、トマトは抜いてちょうだい。 食べられないの。」
「かしこまりました。 では、大至急お届けにあがります。」
そうして、電話は切られた。
今の会話が、会合相手の来訪を知らせる符丁だった。
それから2分もすると、すぐにスィート・ルームの扉がノックされた。
モリッツィオは、アシュリーの指示で、迅速に…しかし、慎重に扉を開けた。
そこに立っていたのは、30代も半ばといった風情の、長身のロシア人だった。
膝まで届く程に丈のある、黒のトレンチコート。
地毛は金色なのだろうが、何故か頭髪だけを黒く染め上げていた。
碧色の瞳は、美しかったが、ガラス玉のように無機質であった。
「こんばんわ、ミズ=シュマイカー。 ご機嫌いかが?」
片言のイタリア語で、男――――暗号名『ビーナ』は云った。
あまりにもロシア訛りが強かったので、モリッツィオは、最初それがイタリア語である事に気が付かなかった。
いかにもな、付け焼刃の社交辞令といった様相だった。
ロシア人が握手を求めてくる。
その掌にも、厚手の革手袋か被せられていた。
「とても宜しいわ、ミスタ=ビーナ。 貴方の方はいかがかしら?」
「何も変わりません。 少なくとも、我々が変わる事はあり得ません。 中庸。 そう、永遠の中庸なのです、我々は。 何事についても、中庸である事こそが永き繁栄に繋がるのです。 その点、合衆国はもう駄目です。 彼らは力を保ち過ぎました。 おそらく、あと100年は保たないでしょう。」
「御高説ですわ、ミスタ・ビーナ。」
アシュリーは、その台詞に含まれた皮肉にすぐに気づいたが、顔には出さなかった。
それはつまり、自分達の事を云っているのだと。
「つい先程まで、メトロポリタン・オペラで歌劇を鑑賞していました。 プッチーニの、『トゥーランドット』です。 第1幕はなかなかに興味深かったですが、それ以降はひたすらに退屈です。 やはり、歌劇はロシア歌劇に限ります。 もし、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』をこちらで公演していたなら、ゼッフェレッリは即座に首を吊った事でしょう。 自分の才能に絶望してね。」
(一体)
モリッツィオは思った。
(この男は礼儀という物を知らないのだろうか?)
仮にも一組織のナンバー2が出向いて来ているというのにも関わらず、スーツどころかネクタイの一つも締めずに現れ、あろう事か相手の立場を痛切に批判するような台詞を吐いて見せたのである。
時分が時分であったなら、即座にオートマグを抜き撃ちにしていたところだ。
モリッツィオは、撃鉄を起こしておかなかった事を、激しく後悔した。
「つい先程、小耳に挟んだのですが」
ロシア人が口を開いた。
「マージ・ノーラの流通ルートに関するMOディスクを盗まれたというのは事実ですか?」
その言葉に、アシュリーと、モリッツィオの心臓が大きく跳ねた。
それは、まだ組織の中でも一部の者にしか知れ渡っていない、極秘の情報だったからである。
しかも、その事件が起こってから、まだ2時間と少ししか経っていないのだ。
「………相変わらず、耳が早いようですわね…。」
「“ドゥナ=ウェイ”経由の情報です。 どうやら事実のようですね。 あの男は、性格は卑屈だが、扱う情報は実に質がいい。」
ロシア人は、相変わらず、品のいい笑みを浮かべていた。
この男の内にどんな感情があるのか、全く読み取れなかった。
「………確かにそれは事実です。 いえ、しかし、案ずるには及びません。 すでにこちらは、多数の追手と、暗殺請負会社の中でも、特に優秀なエージェント3名を派遣しています。 鼠が捕まるのは時間の問題です。」
「優秀なエージェントというのは」
ロシア人は、胸ポケットから紙巻煙草を取り出した。
マルボロだった。
「“悪戯少女”、ニコラシカ=ターレスとオリガ=ストレイヴィチ、ラザロ=マルティネスの3名ですか?」
アシュリーの肌に、すぅっと鳥肌が浮かんだ。
一体、このロシア人は、どれだけ深奥の部分までを見透かしているのか。
アシュリーは、自分が全裸で立たされているかのような錯覚を覚えた。
そして、果たして自分がいつまでポーカーフェイスを保っていられるのか、アシュリーは想像できなかった。
「返答がないという事は、肯定と受け取ってよろしいですね?」
モリッツィオは、左手でジッポ・ライターの炎を覆うと、徐に“ビーナ”の煙草に火をつけた。
“ビーナ”は、ゆっくりと煙を鼻腔に吸い込んだ。
「読後焼却の旨の書類を、MOに残しておいたマークも愚かですが、しかし、敵の牙城に分隊単位で攻め込んで、無傷で逃走する敵の手腕もなかなかの物ですね……。 ただの素人じゃあない。 しかし、ギャングやCIAの手口とも違う……。 豊富な火力に、しかし妙にもって回った作戦行動……。」
ロシア人の目の焦点が、徐々に遠くへと移ってゆく。
「もし、私の憶測が正しければ、今回の件、あの殺し屋達には少々荷が重いかも知れませんね。」
「それは、どういう意味でしょう?」
アシュリーがロシア人に尋ねた。
剣呑な響きがあった。
自分たちの戦力が軽んぜられたと思ったのだ。
「言った通りの意味です。 どうやら、貴方達は、自分が今どういった組織を相手にしているのか、全く気づいていない。」
「―――――――」
「我々は、彼らを《妖精騎士団》と呼んでいました。 国防総省や中央情報局ですらその全貌を把握しきれてはいない、極秘裏の非合法粛清機関―――――」
Gun Crazy
CASE-01 Highway StarE
ブォン! ブォン! ブォォォォンン!!
真紅の機体が、見る見るうちに近くに迫ってきた。
とんでもない加速力だ。
たちまちの内にルノーは560SLの右舷後方に付けて来た。
「伏せていろ、フェルモンド!!」
春彦は怒鳴りながら、シグ・ザウエルP226と、S&Wチーフス=スペシャルを両腕に構えた。
長柄モノは、黒龍の持っているステアーM69で最後なのだ。
いや、仮にあったとしても、もう弾薬がない。
AK74もベルナルデリーも、とっくに弾は尽きていた。
「落ち着け……落ち着け、俺……!」
銃弾を装填する春彦の手は、震えを隠しきれていなかった。
「どうした、春彦? まさか、鳥肌が収まらないって云うんじゃないだろうな。」
「大丈夫だ。 すぐに収まる。」
云って、春彦はまたハッカのパイプを吸引した。
口内に、強烈な刺激臭が溢れた。
その時、リア・バンパーに異様な衝撃が走った。
ドスン、という鈍い音と、ボンネットの中から響いてきた、くぐもった悲鳴。
560SLが横殴りに滑り出し、あわやスピンを起こすという所で何とか姿勢を立て直す。
突撃銃に狙撃されたのだと、すぐにワカった。
おそらく、今、この車のリア・バンパーには、見通しのいいトンネルが空いている事だろう。
「畜生! 奴ら、俺達を嬲り殺しにする気だぜ!!」
黒龍は、頭を低くして叫んだ。
同時に、後ろのボンネットの中から、ゴツゴツとした打突音が聞こえてくる。
今の狙撃で身体のどこかを損傷したのか、マーク=エベンゼールが目を覚ましてしまったらしかった。
「うるせぇ! 死にたくなけりゃあ、少しは静かに――――――」
その時、不意に黒龍の脳裏に天啓が降ってきた。
突如として湧き上がった、唐突の閃き。
トーマス=エジソン――――アンタは正しかった。
天才に必要なのは、99発の弾丸と、1発分のインスピレーションだ――――――
「アイリス! ボンネットを開け、今すぐ!!」
ガンッッ!
リア・ウィンドウに銃創が一つ増える。
網の目状に走った亀裂は、もはや蜘蛛の巣よりも複雑だった。
「アンタ、何考えてるのよ、こんな時に!?」
「いいから開けるんだ! 一刻を争う!!」
灼けるような痛みで、マークの意識は覚醒した。
暗闇の只中でだった。
(何だ!? どこなんだ、ここは!?)
手足の自由が、利かない。
何かで手首と足首を縛られているようだった。
いや、そんな事よりも。
右手の中指の感覚がない。
まるで、そこだけが焼きごてに変わってしまったかのように熱をもっている。
一体、私はどういった状況にいるのか。
尺取虫のように体を前後に動かしてみると、何かひどく狭い空間に押し包められているらしかった。
これは………まるで棺だ。
その時、キュキュ、と耳障りな音を立てて、棺が傾いた。
その拍子に、マークは壁に頭をぶつけてしまった。
(そうか。)
マークは、おぼろげながら状況が飲み込めてきた。
つまり、自分は今、何かに詰め込まれてどこかに移送される途中なのだ。
そうだ。
そうだ。
思い出してきたぞ。
自分は今夜、ブルックリンの麻薬シンジケートと、ニューヨーク内における麻薬市場の縄張りについての商談に臨んだのだ。
ところが、その最中に、FBIの麻薬捜査官と、2人の東洋人が踏み込んできて、取引の場を散々に荒らしていったのだ。
あの失態がボスの耳に入れば……いや、相談役のシュマイカー女史の耳にでも入ろうものならただでは済むまい。
腕一本でカタがつくならまだいい方だ。
最悪の場合、セメントの海で溺れる事も覚悟しなけらばならない。
「何でこんな事になっちまったんだ……。」
マーク=エベンゼールは我知らず呟いていた。
今自分がここにいるという事は、あの東洋人たちは逃げ切ったのか?
あの鉄壁の警備を潜り抜けて?
あの有無を言わせぬ凶悪な手口。
あいつらは、きっと、台湾マフィアか香港マフィアに違いない。
となると、自分はこれから奴らのアジトに連れて行かれ、拷問にかけられるのか。
何だって、俺がこんな目に?
俺が一体何をしたってんだ。
俺はただ商談をし、命令をしただけだ。
そりゃ、邪魔になる奴を消した事はあったが、戯れに誰かを殺した事はない。
そうだ、俺は悪くねぇ、悪くねぇよ。
それよりも、世の中にゃ、他に裁かれなきゃならねぇ悪党がいっぱいいるじゃねぇか。
そうだよ、俺はちっとも悪くない。
俺は―――――――
ドンッッ!!
思考を断ち切ったのは、棺の中に反響した拡散した銃声だった。
「………ッッ!! ぎゃあぁぁぁぁ――――――――ッッ!!!!」
大腿部に、恐ろしい激痛が走る。
骨まで寸断されたような、気の狂いそうな痛み。
恐ろしく、熱く、太いものが、自分の肉を焼き、貫いたのがわかった。
喉の奥から、搾り出すような絶叫が吐き出された。
棺の外から、銃で狙撃されたのだ。
「あっ! あっ! ああぁぁぁ――――――――ッッ!!!」
マークは、半狂乱で身をよじった。
痛み。 痛み。 痛み。
シンプルなその感覚が、脳味噌をそれ一色に塗り潰してゆく。
脳味噌がひっくり返ったようだった。
口の中が、苦いもので満たされる。
執拗な激痛に、意識が剥離されるようだった。
ドンッ! ドンッッ!
続け様に、2発の弾丸が棺の中に飛び込んできた。
棺が、急激に傾く。
1発は外れたが、もう1発はマークの足首に突き刺さり、足の甲を粉々に粉砕していた。
脛に、熱く、粘度を持った液体がまとわり着いている。
視界は閉ざされていたが、自分の足が今、取り返しのつかない状況にあるという事は容易に想像がついた。
「あぎゃっ! ひぃ……ひっ、ひっ、た、助けてくれ……助けてくれぇぇぇぇぇえぇ!!!」
見えない場所から、寸刻みで弾丸を打ち込まれるという、言語に絶する恐怖。
痛みに対する覚悟を構える暇すら与えられない、時間を置いての拷問的な苦痛の連続。
その圧力に、マークは半分正気を失いつつあった。
ドンッ!
また一発弾丸が飛び込んできた。
今度は被弾しなかったものの、その軌道はマークの頭をかすめるものだった。
鉛の塊が空を切る音を、マークの耳は確実に捉えていた。
「やめてくれやめてくれやめてくれぇぇ!! 俺が悪かった俺が悪かった俺が悪かった、勘弁してくれぇ!!」
その時だった。
マークの叫びが届いたから、というわけでも無いだろうが、唐突に棺の扉が開かれた。
マークは、歓喜に目を輝かせて、立ち上がろうとし………失敗する。
足が撃ち抜かれていた為、立つに立て無かったのだ。
しかし、すぐにマークは理解する。
自分が今立てなかったという事の幸運と、そして今自分の置かれている、絶望的な状況下に。
そこは、高層ビルのイルミネーションの美しいフリーウェイだった。
ただし、マークが今現在足場にしているのは、時速100マイルで走るメルセデス=ベンツのボンネットの中だ。
もし、さっき立ち上がっていたなら、その凄まじい風圧と慣性で、即座に硬いアスファルトの道路の上に放り出されていただろう。
ああ、そして。
その後ろには、見覚えのあるフランス車――――真紅のルノー21ターボがつけている。
そのサイド・ウィンドウに、突撃銃で武装した暗殺請負会社の殺し屋を伴いながら。
ルノー21は、560SLと一定の距離を保ちながら、徐々にその左舷に周りこもうとしていた。
左舷に回り込めば、ドライバーの頭部を直に狙い撃ちできるようになるからである。
そして、それはそう遠い時間の事ではなかった。
「あははははははは!! こんなに楽しい人狩りは久しぶり!! 見て、あの、マークの恐怖に歪んだ表情!!」
凶悪なガリル・アサルトライフルを構え、ニコラシカ=ターレスは狂気の笑いをあげた。
時速100マイルの爆発的な風圧は、彼女の纏ったサテンのドレスのフリルを、一気にまくし上げていた。
「手前、わざと撃ちやがったろ? ミスタ=エベンゼールを。」
ラザロ=マルティネスが云った。
「あら、悪い? アンタもアイツの事、嫌いだったじゃない。 あの時代遅れの白人至上主義者が?」
「そうさ、俺はアイツが嫌いだった。 メラニン色素を絶対悪とでも信仰しているんだろう、あの貧乏白人の隔世野郎は、ユカタン生まれの俺に、人格を認めようとはしなかったからな。 だが、そいつとこれとは別の話だ。」
「いいえ、そうとも限らないわ。」
先から、後部座席で沈黙を守っていた、オリガ=ストレイヴィチが口を開いた。
彼女は、ボルトの緩んだホロスコープの角度調整に腐心していた。
「半時間前、ミズ=シュマイカーから通達があった。 もし、ミスタ=エベンゼールの身柄を確保する状況が困難な場合、その身柄は生死は問わない。 つまり、むざむざ敵に情報を与えるくらいなら、その口を封じろって事ね。 何しろ奴は、余計な事を知り過ぎている。 ヴァレンティーノ・ファミリーは、もう彼を切り捨てる気でいるのよ。」
「おお、怖い。 さすが、本場イタリアのギャングは、やる事が合理的だ。 そいつが、この共産主義者の殺戮に格好の大義名分を与えるのが気に入らないが。 …………いや、コイツは快楽主義者か。」
「ご明察よ、ラザロ。 日和見主義者のメキシコ人のアンタにゃ言われたくないけどね。」
ニコラシカが、ガリル突撃銃をもう一度突き出した。
「奴ら、マークを盾にすれば私達が撃てなくなるとでも思ってたみたいよ。 とんだご破算だわ。」
ニコラシカ=ターレスは、劉黒龍の意図を正確に読んでいた。
ルノー21の暗殺者達は、再び銃を構え直した。
その銃口は、このギャングの幹部の肉体すらその軌道に含んでいた。
彼らの碧眼には、マークの姿が映っていないようだった。
「待て! 撃つな! 撃つんじゃねぇよ!!」
マーク=エベンゼールは、その端整な顔をくしゃくしゃにして、必死に殺し屋達に呼びかけた。
この突風の吹き荒れる道路の上では、どんなに叫んでも声など届かないだろう。
マークは、手足を封鎖された身ながら、芋虫のように身体をくねらせて、死に物狂いでニコラシカ達にアピールした。
「俺だ! エベンゼールだ!! わからないのか!? 撃つんじゃあない! 撃つなッ!!」
両車の車間距離―――――わずか20メートル足らずが、まるで太平洋を隔てた向こう側のように感じられた。
自分がどのような叫びをあげても、あの職業的殺人者達はどういう反応も示さなかった。
あの“殺し屋の中の殺し屋”の落とし子達は。
彼らは黙って、あの鉄の凶器のホロスコープを覗き込んだ。
「聞こえないのか!? 撃つな! 撃たないでくれ!! 撃つな! やめろ!!」
マークはあらんばかりの声で絶叫した。
それが詮無き行為である事を、高潔な頭脳をもつ彼自身が一番よく理解していたに違いないだろうに。
不意に、オリガ=ストレイヴィチの唇が何事を呟くのが見えた。
無論、その言葉がマークの耳に届く事はなかった。
ただ、読唇術を知る彼には、彼女が何と呟いたのかを理解する事ができた。
(すいません……)
その言葉が何を意味するのか、理解したマークの顔面は蒼白になった。
「止せぇェ―――――――――ッッッ!!!!!!」
その言葉は夜の風に掻き消された。
ガリル突撃銃から炎があがった。
カラシニコフ突撃銃から炎があがった。
絶え間ない銃声が轟いた。
マズルフレアが、ディズニーワールドのエレクトリカル・パレードのように瞬いた。
光の中で、マーク=エベンゼールは奇妙なダンスを踊っていた。
それは、舞い散るバラの花びらの中で踊る、カラクリ人形のようだった。
高速道路の上に何かが投げ出された。
弾力をもったそれは、硬いハミルトン・エイヴのアスファルトの上でバウンドすると、そのまま動かなくなった。
肉の塊が、無造作にそこに落ちていた。
「!!?」
唐突に、560SLのボンネットが裏側から弾かれた。
見ると、マークの身体によって死角となっていたリア・ウィンドウが、何時にか蹴破られていた。
あれでは、車内を狙い撃ちにしてくれと言っているようなものだ。
血迷ったのかと、ラザロ達は思った。
しかし、それは誤りだった。
割れたリア・ウィンドウの間から、煙を噴いた何かが飛び出してきた時、彼らは自分達がいいように踊らされていた事を理解した。
すなわち、アーウェン=エース――――――携帯用グレネード=ランチャーの砲弾が飛んできた時には。
「なッッ!!?」
ラザロは、とっさにステアリングを切ってそれをかわそうとした。
しかし、狩人の獰猛な悦びに身を任せ、獲物に近づきすぎていたルノー21と、獲物であったはずの560SLの間には、あまりに車間距離がなさすぎた。
致死性の爆発力を秘めた小鳥は、金属のさえずりをあげながら、ルノー21のフロントガラスに飛び込んで来た。
ニコラシカ=ターレスは、生まれはウクライナだったが、幼少時を育ったのはモスクワだった。
まだ、ロシアがソヴィエト連邦と呼ばれていた頃である。
共産主義を謳い文句にしていたソ連であったが、当時のロシア共和国の国内情勢は、“平等”とは程遠いものだった。
むしろ貧富の差は資本主義国家のそれよりも遥かに大きく、人々は夕食の買出しをするためだけに寒空の中を5時間並び、映画館ではスターリンとマルクス・レーニン主義を称えるだけの、娯楽とは程遠い映画を垂れ流した。
それは、クレムリンとKGBによる、完全なる国民管理体制国家だった。
そこでは、人々は『国家』と言う牧場の家畜であり、機械の歯車の一つに過ぎなかった。
ニコラシカ=ターレス……当時はアンナ=ランスキーという名であった少女の一家は、彼女が5歳の時にモスクワに上京した。
彼女の父親は、ウクライナの貧民街でペンキ屋を営んでいたが、ウクライナの定める規定賃金はあまりに安すぎて、食べてゆく事ができなかったのだ。
しかし、当時のモスクワでは、居住権すらクレムリンによって掌握されていた。
これは、地方民の流入によってモスクワにスラムを造らないための政策だったが、学のなかった彼女の父親はその事を知らず、上京してすぐに、アンナの一家は路頭に迷う事になった。
そこで彼女の一家に接触してきたのが、あの悪名高いロシアの情報機関、KGB(国家保安委員会)だった。
彼らは、アンナの父親に対し、取引を持ちかけてきたのだった。
彼らの目的は、アンナだった。
まだ自我の確立していない少女なら、思想の刷り込み、倫理の剥奪も極めて容易だ。
おまけに、余計な口答えも抵抗もせず、ひどく御しやすい。
KGBは、一家の居住権を確保する代わりに、アンナの身柄を引き渡す事を要求してきたのである。
将来のKGBの手駒とするために。
もしも。
もしも、そこで父親がきっぱりと断ったら。
いや、たとえそうでなくとも、せめて激しく苦悩する事があったのならば、彼女の心はまだ救われたのかも知れない。
そうであったのなら、彼女のその後の人生は多少なりとも変わっていたのかも知れない。
だが、そうはならなかった。
彼女の父親は、迷う事無く、二つ返事でアンナを売った。
KGBが、彼女の身体の対価として支払ったのは、わずか100ルーブル(邦貨にして約1000円)だった。
ニコラシカ=ターレスの心の奥底にある昏い狂気の種は、おそらく、ここで芽吹いたのだ。
翌日から、アンナのKGBでの訓練が始まった。
アンナは、将来的にはハニートラップ(女性の色香を利用したスパイ活動)の諜報員となる手はずだったが、彼女はまだ初潮を迎えていなかったため、まず破壊工作の術から先に学ぶ事となった。
そこで、ナイフの使い方、銃火器に対する知識、人体解剖学、トラップの仕掛け方、局地戦における生存術、そしてもちろん無音暗殺術………ありとあらゆる破壊工作を彼女は叩き込まれた。
毎日毎日、肺が凍り付くまで外で走らされ、鼓膜が破れて腕が上がらなくなるまで銃を撃ち、幻聴が聞こえてくるまで外国の言語を教え込まれた。
起きている時間は、余さず訓練に費やされた。
食事の時間さえ、まともに味のあるものは与えられず、栄養剤とプロテインだけが彼女達の肉体に無機的に投与された。
安楽の時間は、1日にわずか4時間だけ与えられる、短い睡眠時間だけだった。
訓練によって筋肉が彼女の肌に露わになってくると、今度は病院の手術室のような場所に連れて行かれ、外科手術で肌に薄い皮下脂肪を植えつけられた。
ハニートラップの際、あまりにも筋肉質では、相手の男の劣情を誘えないからだった。
この、あまりに過酷過ぎる環境の中で、少年少女達は、何人も何十人も発狂した。
施設から逃げ出そうとした者は、射殺されるか、連れ戻されて、激しい拷問の末に洗脳を受けた。
しかし、KGBにとって、それは損失でも何でもなかった。
壊れれば代わりはいくらでもいる。
いくらでも攫って来れる。
この国には、親のいない子も、子を売る親も五万といるのだから。
たとえば、あのアンナ=ランスキーの父親のように。
アンナがそれに耐えられたのは、ひとえに自我を殺したからだった。
これは現実ではないという、強烈な逃避暗示によって、彼女はひたすら訓練を享受する機械人形であり続けたのだった。
そして、11歳になった時、彼女はとうとう初潮を迎えた。
それは、過酷な房中術(寝室で男を悦ばせる術)の訓練の開始を意味していた。
アンナ=ランスキーは、そこで一日に何十人もの男の相手をしなければならなかった。
そこで彼女は、様々な房中術を教え込まれた。
男を誘惑し、ベッドの上で悦ばせ、相手の内情を話すよう誘導する方法を。
KGBの高官様たちは、夢中になってアンナの青い肉体に吸い付いてきた。
それは、彼らにとっては訓練でも何でもなく、ただの性処理に過ぎなかったからだった。
昼間は破壊工作を、夜は房中術を学ぶようになってから、彼女には一時の安息も許されなかった。
いっそ気が狂って欲しいとアンナは思った。
そうすれば、少なくとも心だけは、この過酷なだけの世界から逃げ出す事ができるのだから。
しかし、それは叶わなかった。
彼女の達観した精神は、いつまでもその弄ばれるだけの肉体の中から抜け出そうとはしなかった。
彼女がそこを“卒業”したのは14の時だった。
そこで、ようやく彼女は、KGBの諜報員として実戦に投入される事となった。
最初の任務は、ハニートラップと、そして暗殺だった。
KGBの内情を探ろうと、渡露して来ていた日本人のルポライターから、組織の内情についてどれ程触れているかを聞きだした後、始末する。
アンナはまだ少女と言ってもよい年齢だったが、性的接触を持ちかけた事について、別段そのルポライターは疑おうとはしなかった。
当時のロシアでは、外貨の価値が恐ろしく高かったために、クレムリンの目を盗んで、外人相手に売春しようとする女性が後を絶たなかった為だ。
最初の任務を、アンナ=ランスキーはあっさりと完遂した。
苦も無い、拍子抜けするほど楽な仕事だった。
そして、彼女はそこで初めて人を殺した。
職業的殺人者としての童貞を捨てた。
そこで彼女は、10年ぶりに、訓練の日々によって忘れていた感情を溢れさせた。
それは悲しみではなかった。
哀しみでもなかった。
“喜び”だった。
己が初めて犯す“殺人”という行為によって、彼女が覚えたのは、後悔の念でも罪悪の念でもなく、性的興奮だったのである。
KGBの狂った訓練の日々は、少女の無垢さを、歪んだ形で顕現させてしまったのだった。
一度人間の味を覚えた熊は、進んで人間を襲うようになると云う。
アンナ=ランスキーは、その本能の、最も顕著な例だった。
殺人という背徳行為の甘美な味を覚えたアンナは、諜報部の中でも、とりわけ破壊工作に従事する部署への転属を自ら志願し、進んで殺人者への道を歩んでいった。
本能の求めるままに、殺して、殺して、殺しまくった。
倫理は、父親とKGBが犬に食わせてしまった。
人として守るべき物は、遠い昔にゴミ箱に捨ててしまった。
あの、『オレンジとレモン』の歌の中に出てくる、母親に殺され、父親に食べられてしまった少年のように。
狂気という美酒に酔いしれた彼女にとって、殺人はやがて彼女の生き甲斐にまで昇華されてゆく事となった
しかし、彼女にとって、おそらく幸せであっただろうその日々は長くは続かなかった。
90年代初頭、ソヴィエト連邦が崩壊し、KGBが解体される事となったのだ。
粛清を逃れた多くのKGB関係者は、その技能を生かし、暗黒街に身を投じる事となった。
無論、その中には、事実上機能を停止したクレムリンに代わってモスクワを統治する、ロシアンマフィアも含まれていた。
アンナ=ランスキーは、関係のあった一人のKGB高官の手引きで、ロシアを脱出する事に成功した。
彼は、彼女にニコラシカ=ターレスという偽籍を与え、顔も整形させた。
これで、彼女はもう裏社会とは関わる事なく、平穏な一生を送る事ができるはずだった。
もし彼女がそれを望んだなら。
しかし、半ば殺人中毒とでもいうべき特殊な欲求の虜になった彼女が、一般社会に適合できるはずもない。
彼女が黒社会へ巣を作るのは、必然と言えた。
彼女が身を置いたのは、台湾最大のマフィア組織、三合会に属する子組織の一つだった。
世界中に散らばるKGBの元同僚の伝を利用し、独自の武器流通ルートを確保した彼女であったが、現代のマフィアは彼女が思っていたよりもおとなしかった。
血で血を洗うような、抗争のオーケストラを期待していた彼女は、まるで会社か何かのように合議制を導入していたマフィア達の動向にやきもきしていた。
まだKGBの方が活発に活動していたはずだ。
そこで彼女は、自ら火種を作るべく、対立する組織の幹部達を襲撃して回った。
当然、それによって、ニコラシカの親組織は周りを敵だらけにしてしまった。
そのスタンドプレイに激昂した組織の長は、ニコラシカの首級を三合会に差し出す事で、事態を収めようとしたが、ニコラシカは逆に長を殺害し、国外へ逃亡を図った。
ニコラシカに“悪戯少女”の異名がついたのはその頃だった。
その後、彼女は15年余りをシンガポールで過ごした。
その間、一度だって殺人を忘れた事はなかった。
いつしか、誰もが彼女の名を畏れ、忌み嫌うようになった。
職業的殺人者、ニコラシカ=ターレスの名を。
自分を取り巻く世界はいつだって狂っていたし、いつだって酷薄だった。
みんなが自分を利用しようとしていた。
みんなが自分を弄ぼうとしていた。
だからみんな殺してやったんだ。
みんな。 みんな。 みんな。 みんな。
神様はいない。
そうとも。
この世には、神も仏も、イエス=キリストもアッラーも居はしないんだ。
この世は悪魔がサバトの儀式で動かしていて、人々はただその事に気づいちゃいないだけなのに。
私は、その悪魔の側に回っただけだ。
その何が悪い?
クリスチャンもイスラム教徒も馬鹿ばっかりだ。
神様なんかどこにもいやしないのに。
もし、神様がいるのなら……もし、神様がいるのなら…………何故あの時、父親は自分を売った?
あの、寒いモスクワの街角で、たった100ルーブルで。
この糞みたいな世界に、たったの100ルーブルで――――――――――
グレネード=ランチャーの砲弾が、フロントガラスを蹴破ってきた。
“悪戯少女”の名で呼ばれた職業的殺人者、ニコラシカ=ターレスは、最期にただ一言だけ、こう呟いた。
「は……ッ、ケツ噛んで死ね、バァ―――カ。」
砲弾は、ルノー21の車内で炸裂した。
ニコラシカ=ターレスは、死ぬその瞬間まで、自分の所業を悔いる事はなかった。
決してなかった。
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